迷馬の隠れ家 はてな本館

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ポピュリズム(大衆迎合主義)と独裁政治

先日、平松市長と努兄がやってるラジオ番組で、大衆迎合主義の話をやっていた。で、それに関して彼等流の答えは、やっぱりアナウンサー(報道番組のアンカーマン)経験者とあって、その危険性を警告する内容だった。(つまり、有権者が情報で踊らされ過ぎてはいないか…という事)事実、ヒトラーの演説で奮起したドイツが、結局、第二次世界大戦で悲惨な目に遭ったのはいうまでもないが、それは単に、人々が困窮に疲弊して、何らかの打開策を“待っていた”という心理が見え隠れしている訳であり、そこには、詳細な事情説明よりも理屈抜きの“大風呂敷”に心が奪われた…というより、考える事を止めた民衆の“敗北の姿”そのものなのである。

つまり、独裁者を良しとする風潮の発端は、民衆一人ひとりの絶望と喪失感がすべてであり、そこに立ち向かう勇気と知恵があるのにも関わらず、戦い方を知らない…本当の意味での“使命”を忘れているからである。そう、組織というモノは、様々な思惑はあれど、共戦する思いを重ね合わせる仲間との絆が重要であり、そこには世代や性別、更には民族や宗教概念なども関係無い。つまり、大きな意味での“家族”である事を認識できるかどうかである。だから、年長の者であるなら、その身を挺して部下を守り、幼子であれば年上の者に生きる為の知恵を学ぼうとする…それも自発的にである。
ただ、どんな組織…それは国であれ地方自治であれ、その規模が大きくなり、年数も経ると、その存在そのものが“当たり前”となってしまい、ついつい甘えてしまうモンである。コレが後に、“組織崩壊”の元凶となる訳であり、今の日本のグダグダの原因は、そこんトコの話である。つまり、手厚い社会保障がある事が当たり前になり過ぎて、誰が金銭的な負担をしているのかを、国民全員が全然把握していなかったから、制度の破綻危機に直面しているだけの話である。憲法もまた然りで、平和憲法としての第9条に囚われ過ぎて、肝心な事が何も論議されぬまま、今日まで来てしまっているから、どうして良いのかわからないというのが現実である。だけど、過ぎた時間は戻らないし、問題そのものを後回しにすればする程、更に深刻な状況になりかねない。
休話閑題。要するに、“大衆迎合主義”というのは、パフォーマンスだけで物事を判断してしまう程未熟な民衆を騙す、国賊級の詐欺であり、それが政権を維持しようとして一人のカリスマ政治家を担ぎ上げて暴走した姿こそが、その末路…つまり独裁者による恐怖政治の正体である。そして、独裁者の演説には、現実味のない絵空事しか言っていない。だからこそ、若い頃から政治を監視する為の訓練が必要となる。
そういった原点があったからこそ、学会員が公明党という独自の政党を結成した訳であり、結党当時からそれを罵ったジャーナリスト達は、現在の政治のあり方について、次々と嘆きを吐いている。そこには、政教分離だとかカルトとか言ってる場合じゃなく、そのように罵った挙げ句、自分達がその立場に立った時に、何もできないという“現実”にブチ当たった悔しさしかなかった。だからこそ、多くの著名なジャーナリスト達が、異口同音に“ごめんなさい”コールを発信している。が、それを信じるかどうかは、結局のトコ、自分自身の“判断”でしかない。そういう事を考えるのに疲れた人程、独裁者のスピーチは心地よく聞こえ、その思想に流されて判断を誤る事になる。何度も言うが、独裁者による支配に甘えるという事は、自分が未来を考える事を放棄したのと同意であり、抗う事を避けるのは、保身ではなく自殺する勇気すらない証拠である。