迷馬の隠れ家 はてな本館

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迷走する“言葉”の話w

今日のTwitterで、乙武洋匡氏(@h_ototake)が、自分の事を“カタワの乙武”と自虐的に言ってみた文章を読んだ一部のユーザーから、そんな“差別用語”を使わないでという旨のリツイードがあった。オイラから言わせれば、当の本人…ご存知の通り、乙武氏は先天性四肢不全(ぶっちゃけダルマ状態)である。で、その割にそんな身体ハンデを苦にしていない…言い換えれば、“障がい者”という自覚を持たずに、普通に活動している訳である。(ま、確かに、生涯車椅子&オムツ生活ではあるんだが…)だからこそ、普通の健常者にとって、乙武氏の言動に違和感を持っている人が多い。そう、“障がい者=可哀想な人or社会不適合者”というレッテルを貼ったまんま、乙武氏を見てるから、そういう違和感に襲われるのであって、本人が気にしていない以上、まして、自分から言っている以上、それを第三者が“差別発言だ”と叩くこと自体、実はとんでもない“差別”をやっている事に気付いていない。

同じ障害を煩っていても、先天的なモノと後天的なモノでは受け止め方が違う。乙武氏の場合、何度も言うが先天的にあの姿で今日まで生活してる訳であり、最初っからハンデをハンデと思わない精神の持ち主である。ゆえに、一部のサイトにある“手羽先”とか“リアルドラえもん”等といった揶揄に対して、むしろ自分自身で面白がっている。しかし、事故や病気で四肢の切断を余儀なくされた、後天的な理由でそうなっちゃった人にとって、今まであった“日常”そのものが、その日を境に全て奪われた状態である。そんな心身ともに傷付いた者へ、乙武氏と同じ感覚の揶揄を言えば、当然怒り心頭になる。この部分こそ、実は“差別”の本質であり、健常者はそこんトコをゴチャ混ぜで考えるから、話がややこしくなる。
つまり、最初からハンデを持ってるモンと、途中からそうなったモンにとって、同じ“言葉”であっても、その受け止め方や心情は、まったく正反対の方向である。そこんトコがイマイチ理解できない様では、いつまで経っても“差別発言”そのものが消える事はない。それどころか、ますます人間関係を悪化させる可能性が高い。
同じ事は、民族や宗教の違いでも存在する。部落や在日といった問題も、当事者自身が意識してない、あるいは周辺の者が騒がない限り、一般社会において気にする様な事案ではない。しかし、ここに金銭や就労、利権に絡む諸問題が表沙汰になると、途端にフルボッコになるw 何度も言うが、社会的地位が低くても尊敬される存在にはなれるし、逆にどんなに学歴は優秀でも、影で動物虐待や建造物への落書きをやっている様では、そういう人達よりも最低である。まして、風習が違うだけで侮蔑するのはおかしな話で、挨拶だって“郷に入れば郷に従え”であって、日本語での挨拶を“侮辱的”と言ったなら、その逆に日本語以外の言語(英語や仏語、北京語など)で挨拶してやると、相手も反論できなくなる。そう、挨拶一つでギクシャクするぐらいなら、自分の態度を今一度改める事が必要である。相手より優位に立ちたいなら、尚の事だ。