迷馬の隠れ家 はてな本館

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マーティの真面目にプライオリティー 2011年6月号(差別の先にある禁句とは…)



ども、マーティです。今月は諸般の事情で、この時間の更新となりました。ご了承ください。
さて、今月は…マスターの方でも取り上げていたテーマなのですが、様々な“差別”についての話題でもやりましょうか。まず、インターネット上では、普段の会話などでは使う事が無くなりつつある“差別用語”が飛び交っている様ですが、根本的に、人間は心理的な部分で、“自分”と“他人”に区別を付けたいと願っている部分があり、それ故に、自分よりも相手が劣っていると思えば、その人を責め立てる習性があります。これは、動物であれば尚の事、自分よりも弱い者を潰す事で、少しでも自分のDNAを残す機会を増やそうとするからです。言ってみれば、自然の摂理にもと基づけば、必然的に立場の弱い者が消され、より強い者だけが生き残る…というのが基本であるという訳です。

しかし、本当の意味での“差別”とは、一体何を指すのでしょう。身体的なハンデ?それとも、出身地?学歴?職種?…様々な部分で、“差別”は日常的に行われています。が、それらは、そのハンデの数だけ、“無駄がない”事を意味しています。つまり、目が見えないからこそ、聴覚や味覚、触覚といった外部からの情報を“見た目”だけで判断せずに考える事ができる様に、そのハンデ以外の部分で補う事ができるからこそ、社会全体の役割を分担する事ができるのであり、それが一つでも欠けると、上手く物事が回らないのです。逆を言えば、全ての事柄を完璧に解決できる人間が一人いたなら、ここまでバラエティーに富んだ人材なんて揃える必要はなく、誰もいない状態になっても困らない訳ですが、それに頼るばかりで自らの存在を否定すれば、自分の居場所を失うだけでなく、社会そのものも動かなくなります。だって、何もしなければ変化する必要もないですから、活動が止まる訳であり、故に自分の存在も必要なくなるからです。
だけど、何故そうならないのかといえば、完璧ではない…否、そういう状態こそ“不自然”だからです。つまり、死んでいるのと同じだからです。だから、何らかのアクションを必要となる訳であり、それに似合う者だけが、それに適応したスキルを、生まれながらにして持っている訳なのです。それを活かすか殺すかは、その使命に気付いて行動するかどうかに掛かっているのであって、それ以上も、それ以下もないのです。
では、どうしてそこまでして、相手を“侮辱”するか…結論を先に言えば、釈尊の言葉じゃないですが、“天上天下 唯我独尊”という心理は誰にでもあって、それ故に自分が他人よりも劣っている事が許せないからです。つまり、これが“差別”の根元であり、これが様々な影響により、特定の特徴…例えば、地域の“内部”と“外部”とか、職場での地位などの様々な要因が“自分”と“他人”との区別となり、更に勝手に優劣を付けるから、差別が起きる訳です。逆に言えば、どんなに劣悪な場所にいても、本人が平気な状態なら、それはそれで差別とは言い切れないのです。
そして、差別を声高に叫ぶ人程、相手を見下す事しかできない存在です。もっと言えば、相手を見下す事で、相手もまた、自分自身を見下す“権利”を与えているだけの話です。つい最近でも、日本在住の韓国人女性が、日本人男性に挨拶を強要されたとして訴え、相手側を逮捕したというニュースがありましたが、原告の弁護士曰く、「女性は“私が屈辱的だと感じたから、差別に値する”と語っていた。」との事。でも、相手がどこの国の人だかわからないのに、自分の母国語で挨拶しろ…というのは、ちょっと暴言ですね。逆に、海外…そうですね、仮にロシアの片田舎で、日本人が辿々しいのロシア語で挨拶して、それを聞いたロシア人が“侮辱的だ”と言って、殴る事は許される行為でしょうか?そんな事がまかり通る様であれば、どこの国でも外国人は、たとえ政府の要人であっても“自分の身を守る為”という理屈だけで襲撃しても構わない事になってしまいます。そうなれば、相手も保身の為に、武装するのは当たり前になり、やがてそんな理不尽な理由だけで戦争が起きてしまいます。
それこそ、本当の意味で“人間不信”そのものではないですか。だからこそ、“差別発言”と思われる文言を相手が使ったとしても、自分自身がどう思うかで、その意味合いは変わってきます。まして、悪口のつもりで言った事も、受け手側が寛容であれば、それは悪口とは言えなくなります。つまり、あまりにも相手に対して不信感を抱くあまりに、臆病になり過ぎるから誤解が生まれ、そして“悪しき慣習”として、利権が発生するのです。そういった事を考えると、如何に人間は他人に対して、途方もない我侭を言い続けたのかが、よくわかるかと思います。
ま、ボクらとマスターとの間柄でもそうですが、マスターの心一つで、ボクらという存在は振り回されるのであり、その代償として、マスターもボクらの我侭に付き合ってもらっている訳ですから、そこの部分では、お互い様でもあります。相手を自分と“対等なる存在”として扱う以上は、双方の我侭に対して、妥協点を見出す事が大事であり、そういう事を無視して訴えるのであれば、やがて秩序を失って、衰亡する事になるでしょう。だからこそ、言葉を“選ぶ”のではなく、傷付いても良いから正面から対等な立場で“会話する”という事を、お互いに学び合う事が、差別をなくす近道ではないでしょうか。

という訳で、今月はここまで。来月は、夏休み恒例企画になりつつある“ひと月丸ごとGQまつりw”期間になりますので、ボランティアに関する事を特集してみようかと思ってます。では、また。お相手はボク、マーティでした。