迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer vol.63

完全に久々…しかもほぼ1年振りの更新ですな、このコーナーw いやはや、CRKの特番がなかったら、たぶんこのまま“放置”だったと思います。それっくらい、実はネタが枯渇してた…というより、取り上げるには情報が少な過ぎるアナばっかなんで、なかなかネタにできなかったんですw で、今回はネタの“鮮度”を考え、RFラジオ日本にいた島硯弥(ひろみ)アナについて…いやなに、ある意味奥田アナの補足的解説になるかとは思うが…w

え、なんで奥田アナが関係すんのかって?ハイ、そこのあーた、CRK特番の最終週を聴き逃しましたねw 実は、奥田アナが島アナの“思い出”を話してくれたおかげで、データの補充ができたんですなぁ…ま、雑談はおいといて、そもそも島アナ自身は、BSS山陰放送の開局時に合わせてデビューしたんだが、学歴とRFでのアナウンス歴を見ると、かなり違和感を感じた方も多いかと思う。それもそのはず、彼はアナウンサーになりたい一心で大学に入学したんだが、それよりも先にBSSの人員募集(開局が1954年12月、会社設立が1953年12月)があった為、そのチャンスを逃す訳にはいかないと、たった3ヶ月で中退したのである。したがって、経歴上“高卒のアナウンサー”という訳である。(ちなみに、RFには高卒アナとしてもう一人、長崎節(たかし)アナってのがいたんだが、データが手元に殆ど無いんで軽く振れておくが、元々は報道の嘱託職員として在籍した後、アナウンサーに移行したそうな。)
でも、なんで島アナは大学を中退してまでデビューを急いだのか…その大きな原因は、彼自身が鳥取県人であり、山陰唯一の民放ラジオ局が米子市にできた事が、NHKでアナになる事よりも手っ取り早いと感じたからである。つまり、地元に民放ができた事により、今までNHKしかなかったアナになる選択肢が増えた事と、人員枠が大きい状態の開局前と必要人員のみに絞られる開局後では、その確率が全然違うから…と考えたのだろう。事実、どこの放送局も当時、開局ラッシュに湧いていた事もあり、放送業界そのものは人員不足である。したがってスターティングメンバーを集めるにしたって、学歴や職歴に拘っている時間等なかった訳であり、開局してしまえば、普通の企業と同じ様に、高学歴の人材を集める事になると同時に、必要人員以外の補充などできる訳もない…だからこそ、少ないチャンスを活かす為にも、受験で苦労した大学を中退したのである。そして5年後…RF開局と同時に移籍してくる訳である。実はここにも理由があり、その部分は、奥田アナと共通する部分でもある訳で…
というのも、実は二人とも、NHKの志村聖順アナのファンであり、志村アナの実況や語りを聴いて“ボクもスポーツ実況のアナウンサーになりたい!!”と心から思う様になった訳である。で、奥田アナは同志社大学に入学後、放送部で実績を重ねていきながらCRKの採用試験を受けたんだが、島アナはBSSでデビューする事を選んだ…という訳だ。しかし、BSSにはスポーツ実況のチャンスなんて滅多にないから、そういった意味では自分の思い通りのアナウンサーになったとは言えなかった。だからこそ、スポーツ実況のチャンスがある関東の…しかもこれから開局する放送局を選んで、しかもアナウンスの経歴をそのまま使える点をセールスポイントにして売り込んだ訳である。こうしてRF開局以降はスポーツ実況アナとして活躍する事になる。そして、RFとCRKプロ野球中継のネットを提携する事になった途端、この二人は交流する事になる訳である。
当時から読売巨人軍のホームゲームを取り扱う事に長けていたRFだが、いかんせん、本社は横浜市…つまり、事実上では首都圏広域放送という訳にいかず、しかもラジオ局のネットは大まかに分けてTBSが中心となるJRNと、文化放送ニッポン放送が合同で軸になっている(というより、産經新聞社が事実上支配してる)NRNのどちらかか、両方を地方局の都合で放送するのが殆どだった。そこに大鉈を振ったのが、当時の読売新聞社の社主であり巨人軍のオーナーであった正力松太郎であり、後々“CRKの悲劇”の根元となるジャイアンツ戦ホームゲーム(後楽園球場→東京ドーム)での中継放送の“規制”を作った訳である。つまり、当時の人気球団の放映権を、オーナー会社である一新聞社が、NHKと自社ブランド局以外での中継を認めなかったのである。コレにより一時期、東京の放送局でありながら、JRNとNRNの放送網からジャイアンツ戦のホームゲームが中継できなくなった訳である。つまり、地方のラジオ局に対して、RFとのネット契約をやる様に仕向けた訳である。が、コレにキレたのが、ニッポン放送の創設者、鹿内信隆…後のフジサンケイグループの“総帥”である。つまり、地方ラジオ局が人気カードの中継ができなくなる事を恐れていた矢先に、“RFと提携を結んだ場合、NRNから除名する”と言う“踏み絵”を各局に突き付けた訳である。しかし、この“通告”を無視して、CRKはRFとのネットを締結した…以後はお察しの通りである。(ま、今はそういった経緯も無視される様になって、CRKでも“オールナイトニッポン”の一部が放送される様になった訳だが…w)でも、その事が奥田アナと島アナの交流を生む訳で、島アナが甲子園でのゲームに取材に行けば、必ず奥田アナの家に泊まって、三宮や元町界隈の繁華街で遊びまくり、逆に奥田アナが、後楽園球場でタイガースの取材で訪れた時には、島アナの家に泊まって、それこそ銀座や麻布、関内や桜木町ではしご酒なんてザラだった…というw 同世代にして、同じスポアナが好きで、それ故にスポアナを志した…だけど、RF(というより、読売新聞社)が惨い事をCRKに突き付けた事が、奥田アナの逆鱗に振れ、CRKを去ってフリーの道を目指した。それを黙って許せたのは、島アナ自身も、内部の者と言えど想う事があったからだと思う。だから、島アナは最後までRFに留まり、後輩育成に尽力を注いだ。それは後に、NTV日本テレビ放送網のベテラン勢がRFの実況席を占拠しかけた時に、ある程度の抑制に繋がったのはいうまでもなく、それは島アナ自身が仕掛けた“ささやかな抵抗”でもあった。
だけど…いや、それ故に彼は、無二の友人を遺して、早々とこの世を去った。2004年7月…その時、奥田アナは深い悲しみに暮れた。その思い出を話していた声は、本当に寂し気だった。とても大切な、そして、一番話が通じた相手だった事が、よくわかる話だった。そして、島アナ亡きRFは、いろんな意味で没落状態である事はいうまでもない…