迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

夫婦喧嘩と家族の意思疎通…

いやね、さっき、旦那と些細な事で口論になり、ちょっと興奮中。なんせ、考え方がネガティブ過ぎると言うか、他者との関わりを極力避けてきた事が遠因してるのか、ちょっとでも面倒くさい事になりそうだと勘付くと“俺、関係無いから…”と言って、そそくさと姿を消す。戻ってきてこっちが問いつめると、すぐに“俺には関係ない事やし…”と、DQシリーズのはぐメタもビックリな逃げ姿勢である。その反対に、義父は義父で、オイラが学会員である事を知っていながら、すぐに他の学会員の“あらぬ噂”を信じ込んで否定的なことを言う。ま、旦那に比べたら、こっちは原因がはっきりしてるんで、こっちが折れるべき部分は折れておけば良い訳であり、世間に対する風当たりを否定する為にも、できる範囲での“社会貢献”を、それも地道にやっていけば良いだけですから…w

そもそも、長男でありながら自分自身を“要らない子”という概念で育ってきたトコがある様で、故に、責任感とか気丈さがない。本来、家系の長となる宿命を背負った者が、自分自身を見下して、しかも自分より弱い相手にすら尻尾巻いて逃げる様では、家長となっても家族を守る事もできない。それは、結局は自分を生んで育んでくれた両親に対する反逆であり、ともすれば一番の不幸である。しかし、自分自身の存在価値を“ゴミ以下”に自身で決めつけてる以上、これ程バカげた話はない。誰にでも、本来は自分自身に対して、何らかのプライドがあって当然であり、それをも持てないというのは、ただ単純に、霊長目ヒト科ホモサピエンスという生命体に生まれただけで、なんの意味も成さない。
学会員でなくても、何らかの宗教をやっている、あるいはそれに関連する哲学を学んだ経験のある人は、肝心な時に逃げたりはしない。本当に“守る“べきモノ…それは、自分にとっても、そして自分を“愛してる”者にとっても“大切なモノ”を、自らを犠牲にしてまでも未来へ続けとばかりに想う気持ちが隠ったカタチで守り続ける事が、自分の“使命”であると胆に命じてるからである。だから、相手と意見がすれ違っても、そこにあるのは共通した想いがある。違うのは、その概念に至るまでの経緯であり、立場である。
故に、相手の気持ちを理解できたとしても、それが上っ面的なモンであって、深層心理まで理解しようモノならば、時として相手が嫌がる事を、心を鬼にしてまでもやらなくてはならない事がある。それは、結婚後にバレる部分でもあり、家族というのが成熟していく時の通過儀礼でもある。特に日本の女性は結婚後、伴侶の家族として一人、自分の両親の手元から離れたトコで、死別するか離婚が成立するまで、ずっと一人で世間と戦わなくてはならない。男性の場合は、そういうケースは稀であって、大概は独り身でも平気な反面、実際は結構“甘い”のである。特に、両親と同居となると、女性にとっては姑からのプレッシャーは強烈であり、まして半分ニート状態な男性は、ゆえに女性を“満足”させる事すらできない。(うん、若干お下品は話だことw)
結婚するという事は、本来、新しい“家族”を自らの意志で開拓する事を意味してて、どっちかの親に甘えたままの生活は、決して健全とは言えない。もっと言えば、自立できない人間が、いっちょまえに伴侶を設けること自体“奇跡”であって、本来ならあり得ない話である。そして、それ故に誰かに妬まれ、怨まれて当然の立場である。しかし、そういう事が自覚できない程、不安定な生き方をしてるという事は、それは両親に“問題”があると考えざる得ない。但し、それはシングルマザー(ファザー)だからとか、子供に身体等の先天的なハンデを持っているとかではない。むしろ精神的な部分での、しかも“家族”という最小限の社会構成において、他人とは違う“常識”がまかり通ったままの状態を指す。それが町内会レベルなのか、自治体レベルなのかはともかく、外部との摩擦が少なく刺激がない事が“当たり前”になると、その中があまりに居心地が良過ぎて“余所者”を排除したくなる。また、自分自身の事を指摘すると、激昂するか逃げるかのどちらかの態度を取ってしまうのも、それは周囲が過剰に甘やかし過ぎた弊害である。確かに、我が子がかわいいのはわかるが、それだけでは結局、子供にとって大事な“屈辱”からの“再出発”を学ばす機会を奪う事であり、却って子供自身が不幸になる。そう、子供だって、未熟であってもそれ相応の人格があり、そして意思がある。それを尊重するトコはしても、間違ってる、あるいはこのままではマズいと思う事に対して、叱ってやる事が時には必要であり、その“愛”に目覚めるとき、初めて子供は“大人”へと成長するのである。叱る時は相手を想い、それこそ命懸けで教えるつもりでやらなくてはいけない。逆に、自分自身の都合で子供に当たるのは躾ではなく、単なる我侭。その分別がわからないのは、自身の幼少期において、親との接し方に問題がある。何かある毎に金品を与える事や、常に要望に応えるだけの接し方では、子供は親に対する感謝の気持ちを持つ事はできない。時としてそれを否定し、駄々を捏ねて泣き叫ばれても仕方がない。むしろ、そういう経験が不足してると、大人になってからも、そういうクセが付いてしまうだけでなく、責任能力が欠落した“ダメ人間”になる。むしろ、大人の方がタチが悪いw
つまり、“家族”とは、最低一人は直系の血縁とは“無関係”な存在がいて当然であり、それが幾重にも重なって作られた歴史が“家系”なのであり、それはいつ途切れるかわからないモンである。しかし、それを連綿と継がれてきたのは、相手を想い、尊厳を守る為の愛という名の“絆”が起こした奇蹟であり、そして各々の宿命という名の縁が織り成す“物語”である。だけど、それに気付くのは、本当の意味で人生の終焉の時なのかもしれない…