迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

泥沼に何故植物は生えるの?〜本当に汚れてるのは…〜



蓮や睡蓮に限らず、水辺の植物は、その殆どが泥沼なトコに生え易い。また、美味しいレンコンが取れるトコは、意外にも粘土質でしかも水が汚いw(正確には、透明度皆無な泥沼状態)しかし、水辺の植物は、敢えてそういうトコに生える事によって水を浄化し、河川や湖等の水底の土壌を豊かにさせる能力がある。また、イネ科の食用種(コメ)の殆どは、その性質を活かし、いわゆる“水稲栽培”ができる。逆を言えば、透明度の高い水質の池や湖には、ハス科の植物は生えないし、まして塩水湖だと、その塩分濃度が高過ぎて、海草類すら生えてこない。

ここんトコ、震災瓦礫の受け入れで、自治体と市民団体がモメてるニュースを目にするが、忘れてはいないだろうか?広島市長崎市では、それこそ毎日、放射性物質を含んだゴミや下水を処理してる…そう、原爆の“爪痕”は今だって続いている。それを棚に上げて“放射性物質を撒き散らすな”とほざくなら、それはひいては東北の被災者や広島市民、長崎市民をバカにしてる事に繋がる。もっと言えば、エホバの証人の信徒にありがちな“輸血拒否”の原理に近い事を、やっちまっているのと同じだ。もちろん、エホバの証人の信徒がそうする“理由”も、純血を尊ぶが故であり、大怪我を負っても、輸血すれば助かる可能性があるにも拘らず、それを“法に則って”拒否するのである。(ま、HIVやB型・C型肝炎ウィルスに感染しない点を考えれば、ある意味、理に適ってるのだが…)だが、それだって“随方尼毘(ずいほうにび:仏法用語で、根本の信仰から外れていない限り、その地域や文化に対して、柔軟に対応する事)”であって、世間の常識や習慣に則さない事を“正法”としてゴリ押ししても、却って理解され無いどころか、毛嫌われて当然である。
もっと言えば、そんなに自分は“清浄なるモノ”でしょうか?正直言って、答えは“NO"である。大体、生命の誕生…特に哺乳類の赤ん坊は最初、母体の血液を纏った状態で生まれるのが常であり、その血液の匂いを、外敵に悟られない様にする為、母親は敢えて、出産後すぐに赤ん坊に付いてい胎盤や血液、更には羊水を舐め取る。人間だと、そこんトコは清潔な病院で処置する訳だが、自然界ではそういう訳にいかない。そしてそれは、常に生きる為の“サバイバル”の始まりであり、原点でもある。もっと言えば、もしも痕跡が少しでも残っていれば、その時点で匂いを察知した外敵…肉食獣や猛禽類、更には蚊や蝿といった疫病の媒介になる虫に狙われる事を意味する。
しかし、なんでそんな事になるのか?それも“生命の鉄則”に則った決まり事であり、それに打ち勝てない様では、この先でも辛いだけ…そう、生きる事とは、その生命がこの世に現れた時点で“地獄”であり、そして“天国”でもある。それが本当にそうなるのかは、各々の生命そのもの次第であって、誰のせいでもない。むしろ、生命としての“苦”こそが、それを感じ取る事によって“生”の意味を知るきっかけであり、自覚する唯一の“手段”である。それを嫌った時点で、それは本当に“生きる喜び”からの“拒絶”であり、成長を“望まない”と自ら言ってるのと同じである。
放射性物質が拡散するのを嫌うなら、何度も言うが、今すぐ“首を吊れ”である。そして原発を過度に嫌うなら、その“対価”として電気代が高騰する事は避けられない事を悟れ。そう、メガソーラーや風力で“ウハウハ”になるのは、そういったモノを設置できるだけの財産や敷地を持ってる者だけであって、一般家庭には、なんの恩恵も無い…それどころか、収入が不安定な農家や漁師等は、ますます廃業に追い込まれる危険性が出る。忘れてはいけないが、食糧を安定的に自給できる環境とは、全く“真逆”を唱えている事に気付かない様では、やがて日本から“美味しいモノ”が消滅する事を意味する。もっとも、そういう事を知らない人程、市民団体が“正義の味方”っぽく見えがちだが、実のトコ、彼等自身はその殆どが“正当な理由無き”生活保護受給者であり、それこそ他人の血税を“喰いモノ”にしてる不届き者である。本当に自分らが“最底辺”と言うなら、何故社会貢献の為に“労働の義務”を行使しないのだ?もっと言えば、会社の不当な扱いや差別に対して抗議する前に、自分がそれに似合うだけの仕事をやっていたか、考えた事があるか?
敢えて差別発言をやっておくが、身障者でも社会貢献する為に行動を起こしてる人はたくさんいる。しかし、見た目や作業の遅さから軽蔑してるのは、一体誰なんだ?もっと言えば、バリアフリーだのUDだのと言ってるが、根本的な“間違い”を指摘するなら、誰の為に“利便性”を計ったのか、考えた事があるのだろうか。生まれながらの身障者と、事故や病気でなった身障者とでは、その感覚も、そして認識も違う。そこんトコをゴチャ混ぜにしてる時点で、差別云々は別問題だ。そして、一見泥だらけなトコで取れた野菜が美味しいのは、そういうトコで育てられた事により生きる為のサバイバルを勝ち抜いた“エリート”だからであり、俗に“衛生的”だとか“無菌室で…”とかと言った人工的な栽培法で育った野菜と比べて、味も栄養価も高い。その事をよく知っているのは、皮肉な話だが、通常なら“害獣”とされる、野生動物である。特に田舎のカラスは、本当に“美味しいモノ”しか食べない。(いや、マジで。トマト農家をやってると、よくわかるんだよなぁ…生成り完熟トマトは、真っ先にカラスの餌食になるからw)
自分自身が本当に“清浄なるモノ”であるなら、それは生命力が極端に弱っている証拠。不浄なる者として嫌われてても、そこには“意味”がある。本当に生命力に溢れて美しいモノとは、周囲が汚れている中にひっそりと存在しているからこそであり、周囲が綺麗過ぎると、それらはぼやけてしまう…汚いモノと見下すなら、それは自分の“醜さ”を映した鏡だ。それを否定した時点で、自身の穢れを悟れ。そもそも、芸能人や文芸人が、大口スポンサーにケチ付ける時点で、その収入が激減して当然なのだが…w