迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

なぜ、ムショ帰りが再犯をするのか?

今日は実家から、しかもiPadから更新w 昨日心斎橋で起きた通り魔殺人、犠牲者のうち、男性は執拗なまでに切り刻まれた…何の恨みがあって、そんなことになったかはどうでもいいが、問題なのは、なぜ、刑務所から刑期を終えた人間が、ここまで世間に絶望し、そして刑務所へ“戻りたい”一心で凶行に及んだのか?オイラからすれば、むしろそっちの方が気になる。

重要なのは、実は犯罪そのものではなく、刑期を終えて出所する際に、誰が“前科者”に対して、社会復帰の場を提供しているか?そして、再販防止のために、社会そのものがキチンと機能しているのか…そういう部分を、誰も論じていないような気がする。もっと言えば、犯罪に手を染めた者は、刑務所に入れて刑期が終えるまで縛り付けるだけで、本当に反省するのかってこと。むしろ、その罪ばかり問うて、本人の反省の意志を無視して、阻害してるように見えて仕方ないのだ。
そもそも、刑務所に入る罪人の殆どは、殺人や危険運転致死などの様な重篤な犯罪をやった者とは違って、窃盗や器物損壊といった、いろんな意味で“軽犯罪”の類で逮捕され、短期間での出所である。しかし、札付きであることを理由に、その罪ばかり責めて、相手にしない方がいいと判断する人が多いような気がする。あえて言っておくが、軽犯罪の類は、罪人自身の“メンタル的な脆弱”が惹き起こしたモノであって、また、殺人と言っても、実際は“事故”に近いケースもある。(特に親族間でのいざこざが起因となってる場合)
しかし、情報そのものが少ない上に、報道機関での取り扱いは、殆ど画一辺な状況である。これでは、誤解されるのも無理ない話である。つまり、“犯罪者=悪人”という図式を勝手に作り、それに従う様に追い詰めてしまっている事に、誰も気付いていない…これが今回のケースであり、精神鑑定以前として、世間そのものが”悪を許すな”という意識に振り回された結果、本来だったら社会復帰できたハズの人間を、再び犯罪に手を染める…否、自分自身の“居心地の良い場所”を刑務所内に求めてしまう様になる訳である。
これによく似たケース、何回か見てるハズですよ…そう、一連のオウム真理教関連の事件や、大教大池田小事件、ネオ麦茶バスジャック事件等の裏側。これらに共通してる事は、世間を敵に回した事よりも、自分達自身で世間に“逆恨み”をしていた事…その、そもそもの原因が、彼ら自身をバカにして茶化した事が、積もり積って爆発した…という事。同じ事例なら、歴史上の“悲劇”も、その全てが、こういったケースと全く同じトコに原因があると言って過言では無い。そしてその結果は…ここで理解できた人は、犯罪者の更生に対して、何処までも付き合えるし、信頼を勝ち得て再犯を防ぐことができる人です。逆に言えば、その事に気付かないからこそ起きた“悲劇”なんだってことがわからないから、同じ過ちを繰り返し、そして疑心暗鬼をより一層強めてしまうのです。
兎角、自分自身が優秀だと思いがちで生活してるモンだから、相手のちょっとしたミスすら許せなくなる。しかし、自分も同じミスをやってる可能性はある訳で、それを認めるかどうかは、ある意味相手次第…というか、イジメの本質と一緒で、自分よりも格が下だと思う相手に対して、トコトン意地悪して更に貶める事で、優越感を得ようとする。しかしそれは、時として自分自身の“醜い姿”を映し出す鏡にグーパンする様なモンであり、やる度に、心の何処かで“誰かに止めて欲しい”という欲求が溜まってくる。そして、そのモヤモヤした感覚に気付く時、それは虐めた相手から致命的な反撃を受けたときであり、また、第三者から殴られた瞬間だったりする。そういう状況を見抜き、あえて“殴らない”叱り方をやる僧侶や牧師、宗教哲学者がいる。共通しているのは、いずれも確固たる信念の下で、宗教の持つ本当の意味での“生死間”での説法をもって、相手の心を揺さぶる。しかし、普通の人は、理不尽な振る舞いに対して、ついつい暴力に走る。それは、その方が“痛み”を訴えられると勘違いしてるのであって、体感的な“痛み”など、それ自体は個人差があって意味を成さない。
重要なのは、相手の“心の痛み”の本質を見抜き、一歩手前で止めてやるだけの“優しさ”を相手に示してこそ、犯罪そのものを減らす事ができるのであって、犯罪者そのものを見下したままでは、最悪の事態は避けられなくなる。

教訓:心の闇を晴らすのは、再起を誓った罪人の心を素直に信じてやれる、純粋で誠意ある真心である。それを忘れて愚弄するならば、同じ過ちを繰り返すだけ。