迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

差別が“差別”を生む瞬間…

先程、オイラの記事に対してコメントがあったのだが、内容が“内容”過ぎて、投稿した方には申し訳ないが、掲載せずに削除した。但し、敢えて言っておくが、これは差別による既得権益に対しての批判であれば良いのだが、個人的な恨みでやっている以上、掲載するには至らない…否、余計な誤解を招く可能性があるという判断に基づいたからだ。逆を言えば“余計な事”を言わずに、ただ単純に、身体的な事でバカにされた事を打ち明けてくれてたなら良かったのだが…

上記のタイトルを見て、どういう意味なのかを説明すると、要するに、様々な差別を理由に得た既得権益に対して、他の人が事情も知らずにやっかみを言う事や、相手がそういうのに縋っている存在だと“決めつけて罵る”事程、更なる差別を生み出し、余計に話が拗れる事を懸念したまでである。つまり、オイラみたいな学会員は、常日頃から“在日”だとか“カルト教団”とか罵られまくっているが、本当に全員が在日外国人(この場合は韓国・朝鮮系)であるかと言えば、むしろそっちの方が少数派。つまり、差別を受ける側のイメージとして在日だの部落だのと罵ってるのが殆どで、実際にやってる者の“正体”を知ると“謂れなき差別”だという事に気付く。逆を言えば、悪いイメージを植え付ける事によって、創価学会という“紛い物の団体”を潰す狙いがある…と推測できる。但し、あんまり言いたか無いが、世間的に叩けば叩く程、その名前が有名になり過ぎて、却って今見たいにマスコミが広告を募る際に真っ先に頭を下げざる得なくなったのは、一種の皮肉とも言えるw
コレと一緒で、特定の自治体を丸ごと“部落だ”と罵るなら、そこに引っ越してきた“余所者”は、たとえ出生地が別でも、いやでもそのレッテルを貼られる事になる。もちろん、自分自身も同じ。また、有名人でもその戸籍が“在日”だったからとか、いわゆる“部落”だったからとかでバカにしてるのは、結局は自分自身の劣等感を慰める為の“嘘”であって、真実であったとしても、そこに囚われて他の部分を見抜けないと、却って自分が損するだけである。ちょっと言い方を変えれば、相手に対して自分が言った“悪口”は、結局は自分の劣等感を晒すだけの恥ずかしい事だと気付かないと、却って自分自身が深く傷付く事になる。諺でいうトコの“知るは一時の恥じ、知らぬは一生の恥”である。
また、悪口を言われた位で拳を振り上げるのは、子供の時ならともかく、イイ歳してそれではみっともないだけでなく、却って自分が悪くなるだけで、なんの解決にもならない。では、どうすればそれを解決させられるのか?至ってシンプル。権利は“行使”するだけじゃないという事に気付く事である。つまり、どんなに深い恨みがあって、相手に復讐する権利が自分にあったとしても、敢えてそれを“行使しない”という選択肢もあるって事。逆を言えば、本当にそれを行使した後その“罪”を、自分一人で背負えるかという事に気付き、寸止め程度にする“心構え”を持つ事にある。江戸時代の“仇討ち”に関するルールも、基本的に加害者本人と被害者遺族の“子供”が対象であって、一見すると加害者有利な罰則である。が、コレにはからくりがあって、全財産を抛ってまでも…ってならやっていいというモノであり、また、加害者・被害者双方が“未成年(この場合は元服前)”である場合、その親がドンパチするのは“御法度”となっている。また、武士は特権で、庶民に対して“切り捨て御免”がまかり通ってた時代である。だから、侍が自分の不正が庶民にバレて、それを隠す為に切り捨てるのは“罪に当たらず”なトコがある反面、庶民が奉行所でも裁けないう判断で報復を受けても、文句は言えない…というのがルールとしてあった。つまり、身分制度での差別がある分、それを理由にした不正があった場合は“法に基づく下克上”といったトコであるw
閑話休題。報復すべき相手を“世間”とした時、それを殲滅しようと躍起になるのは良いが、本気で実行すれば、真っ先に消されるのは自分自身である。逆に、報復するべきを“自分”として、ただ単純な破壊衝動を他の事に転換できれば、故に誰にも辿り着けない様な境地に立つ事ができる。つまり、コンプレックスをバネにできる人は、故に高い技術を身に付けるだけの才能がある事を意味する。体系…特に背が低いとか、デブだからとか、そういった事を気にする人程、その悪口をバネに他の事で見返してやれば、充分な“報復”になる。問題提起する時は、多少の暴力沙汰もアリだが、それだけでは根本的な解決にはならない。むしろ、本気で自分をバカにした相手を見返すには、バカにした者が到底できない様な技術や経験を積み重ね、それを社会に活かす事が大事。そのきっかけは、とても些細な事でも良い…それを活かす権利を、実際に行使するかどうかは、自分次第だって事に気付こう。ただ単純に、権利があるからと縋っている以上、何も変わらないし、むしろ堕落するだけである。自分にとって本当に“邪な権利”は、最初から求めない方が良い。むしろ、保持してても行使しない…という考えこそが、余分な差別を作らなくて済む、一番の方法です。