迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“怒り”の方向性を間違えてはいけない。

福井の大飯原発再稼動以降、反原発脱原発のデモや抗議活動が週末に盛んな様だが、どうも、被災地に住んでいる人を無視して、勝手論を展開してる連中が目につく様になった気がする。実際に被災した福島県の、しかも原発にほど近い双相地区の人がやってる分には同意できるが、全然関係ない人が、勝手に彼らの“代理人”をやっている事程、マユツバな話はないと思う。まして、メガソーラーで一山当てようと目論んでいる、某起業家の様な輩にダマされ、今、都市部で発生している“ゲリラ豪雨”に伴う停電や水害に見舞われている地域は、別の意味で“被災者”である。言っちゃなんだが、原発廃炉したかったら、温泉地に住む連中に地熱発電の設置に同意を得るのがスジだろ…と思う。ま、そこんトコの話は別のトコでするとして、大津のいじめ問題も、完全に“被害者無視”の別の事件へ発展し始めている。こういう事は、当事者以外の人間が関与するべき事ではないし、まして、SNSを通じて騒ぎを拡大させること自体、既に“いじめ問題”を口実にした、単なる“暴動”に転じてる様にしか見えない。これでは、そもそもの事件がボヤけるだけでなく、なんの問題解決にもならない。

自分が抱える不平・不満を、世間にブチ撒ける行為は、それ相応の権利がある以上大いに結構な話だが、問題はその“怒り”の方向性を間違えてはいけない…という事。特に、ちょっと自分で疑問に思い、独学ながらもデータを調べ、情報をまとめて訴える分には、相手も納得した上で反論を展開するだろうし、感情論ではなく、客観的視点でモノを言ってるならともかく、一時的な感情の勢いだけで訴えたとしても、それが“正論”とは限らないのに、変な執着心で没頭する事程、愚かでバカバカしい話はない。特に、即刻の“原発全廃”を訴える人程、近視眼的な発想に陥っている事を自覚していない。第一、全廃できたとしても、その時に出る放射性廃棄物の最終処分法が、未だに確立されていないのに、原子炉を止めただけでは、却って原子炉建屋等の耐久性の経年劣化に伴う事故を防ぐ事ができなくなる。ぶっちゃけた話、いつ起こるかわからない“事故”は防ぎ様がないが、必ずあり得るであろう“事故”を防ごうとやってる連中の足を引っぱっているのは、実は“自分達”だという事に気付かない様では、結果として“双相の悲劇”を他のトコでもやっちまう事になる。
福島第一原発の事故は、一見すると東電が悪く見えるが、実際のトコ、民主党政権下で実行した“CO2排出25%削減”の政策に基づいて、本来なら廃炉の手続きに入ってたハズの原子炉を、無理矢理動かしていた事が全てであり、それを支持した有権者…つまり国民にも、その責任を負うトコがある。仮に、東日本大震災がなかったとしても、茨城県東海村福井県美浜町の原子炉は、本来なら廃炉の手続きを始めていないといけなかったのに、そして、その手筈を自・公政権下では水面下で進めていた事なのに、それを否定したのは、いうまでもなく民主党政権になって以降である…ここんトコを失念してはいけない。また、活断層云々で騒いでる人の殆どは、それがいつ動くかは決定的な時期の特定ができていないのに、しかも確率的に低いのに騒いでいる事が殆ど。確かに、いつ起きるかわからないという“不安”はあれど、それをいちいち気にしている様では、日本では“どこにも住めない”と言ってる様なモノ。逆を言えば、近い将来に起こり得る危機から、被害を最小限に留める為に必要な対策はやっておく事に越したことはないが、それでも不安ばかり嘆くだけなら、被害を防ぐ事はできない。むしろ、最悪の事態を招きかねない。
それと、抗議活動をする人間が、どうして自分の“家族”を犠牲にするのか、ちょっと考えればわかると思う。要するに、こういう“問題行動”をやる連中には、本当に“大切なモノ”を守る概念が、コレっぽっちもないのだ。言い方を変えれば、ニートと同類w 自分さえ良ければ、他人が被害を受けても平気なのである。(ある意味、オイラも他人の事を言えた義理ではないが…w)冷静になればなるほど、抗議活動をやっている人達の“思考回路”が如何程なのかがよくわかる。要するに、利権を貪りたくて、そして、平穏な生活をしてる他人が“羨ましい”から、それを阻害し、自分達と“平等”であるべきだとほざくのである。忘れちゃ困るが、真の意味の“平等”とは、各々の役割に自らが責任を感じ、その使命を全うしてこそ意味がある。そして相手に対して、対等な立場で話し合いをする場を設ける事が条件であって、安易に怒鳴ったり、一方的な主張のみで相手を批判してる時点で、それは“平等”とは言えなくなる。自分が“底辺”だからと腐ってる人程、実は自分自身が他人を“見下してる”事に気付いていない。だから、権利ばかりを振りかざして、責任を他人に擦り付けようとするのである。その逆の行為をすれば、自ずと相手側から折れるのに…イソップ物語の“北風と太陽”の寓話は、まさにコレである。
いじめ問題に関しても、加害者本人を責めるのは、被害者以外やってはいけないこと。むしろ、その被害者自身が命を絶ってしまった場合、自殺だと、それは被害者の両親も“加害者”としての責任(我が子の心を気付いてやれなかった事、育児を放棄した事等の)を負わなければならない。だが、加害者から直接的な暴行を受け、その怪我が元で…というなら、加害者自身の責任として、キチンと落し前を付けるのがスジ。しかし、そこんトコが恐らく加害者は“ゲーム感覚”であるから気付きにくいのであり、また、いわゆる“体罰”とされがちなゲンコツやビンタを、保護者自身が勘違いしてる以上、防ぎ様がない。このBlogで何度も言ってるが、感覚的な“痛み”を知らない者が、知らないままで力を誇示しようと、自分より弱い相手を殴ってる…という事に気付かないと、同じ事件が繰り返されるだけである。まして、事件の当事者じゃない教育委員会の連中を殴ったトコで、それは別問題。むしろ、被害者の御霊は、もっと苦しむ事になる。当の本人は、そんな事を望んじゃいない…むしろ、自殺行為そのものは、自分を守ってくれなかった親に対する当て付けだ。そこんトコを履違えてはいけない。そして、教育現場で、いじめ問題そのものを、当事者に関係無く事実を揉み消そうとする事程、みっともない話ではないか。
いじめられっ子だったからこそわかる…というか、本当の意味で“底辺の使命”を自覚してるからこそわかる事がある。それは、どんなに知性や文化が優れた国家であっても、その国民一人ひとりがエエ加減だと、結果として滅亡するのも早い。それに、当事者が“なにがしたい”のかをキチンと把握していない様では、どんな施しも無駄になる。シリアの内戦も、結局はシリア国民に“国連は役立たず”という印象だけを残しただけの話。逆に、その“使命”を自覚し、責任を担う事を自らが厭わなくなった時、どんなに貧しい国でも、国民はみんな平等で平和な生活を維持できる。そのための意識作りを“放棄”した教育では、結局は国民そのものが自らの国を滅ぼす“怨敵”になる。そこからは何も生まれない…否、間違った“英雄”を求める事になりかねない。真の“英雄”とは、自らを犠牲にしてまでも、未来の為に道を拓く“先駆者”であり続けなければいけない。それを忘れた指導者・為政者に、英雄になる権利はない。