迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

一番“エラい”人って誰?

久々に、オツムの悪い典型的な議員の発言があった…と言っても、アメリカの話。ま、ニコニコニュース経由で時事通信が報じてるんだが、ちょっと一読して欲しい。こういう意見がまかり通るのが、実はアメリカの不思議な部分で、多分、言った本人は、注目度を集める為にワザとやった可能性がある。が、この発言を鵜呑みにした国民…特に女性なら、怒って当然。もちろん、男性でも、伴侶がいたり恋人がいる、いわゆる“リア充”なモンなら、これはいただけない話と一蹴するレベル。ただ…この記事関連のTwitteで、学会を叩くのは、ある意味スジ違いもええトコだが…w

閑話休題。諸問題の全ては、結局考える範囲が“自分”と“他人”であって、そこんトコの感覚がズレている以上、相成れないのは当たり前。但し、だからと言って邪魔者扱いしたり、抗議する方向性を間違えていると、結果として“誰得”な話になる。例えば、脱原発を唱えてる人程、放射性廃棄物の最終処分方法をめぐっては、現在原発がある地域にすべきと唱える…エラい矛盾です。現地を核から解放するんだと言っときながら、その最終処分を自ら引き受けようと言わないトコがおかしい訳であり、本当に責任感が強い人なら、多分、こう言ってるでしょう…最終処分は“消費地”であるトコが受け入れるのが、原発を受け入れた自治体に対しての“代償”だと。いじめ問題も、ある意味同じ話で、要は“加害者”と言われる存在のモンが、肉体的、あるいは精神的な“痛み”を知らないからこそ、だんだん陰湿に、且つ残忍になる訳で、そこんトコをキチンと指摘し、指導してこそ、いじめ問題の根幹を縮小させる事ができる。つまり、教育現場も“問題”を“どう解決させるか”を問うべきなのに、何故か“どう問題を発生させないか”に焦点を絞り過ぎて、本末転倒な状態になっている訳である。
いじめ問題に関して、少しヒントになる話をすると、“チャーリーとチョコレート工場”に、いろんな意味でマッドなガキどもが登場する訳だが、そいつらの行動を見て、ひとつの“法則”が成り立つのがわかる。ま、映画の内容に関しては、実際に見てもらうとして、結論から言えば、本当に人間の精神的な部分での形成は、子供の時に如何にまわりの大人達が、どんな“教訓”を教えるかに掛かっている…という事。主人公は、両親以外にその両方の祖父母がいて、コレが様々なヒントを出している。そして、場面の途中で出てくるチョコレートを売ってる食品店のオヤジが、周囲の強欲な大人達を制し、主人公にそのまま家へ帰る様指示する…ここに本物の“大人”としての対応がある。そう、子供の純粋な思いを守る為に、本当にやるべき事は、巨万な富を振りかざす事でも、我侭を放置する事でも、過去の栄光に縋ったり、勉学以外の分野を捨てる事ではない。逆を言えば“子供の笑顔が見たいから”という“言い訳”は、実は子供には通じない…否、却って子供が成長する段階で、精神的に歪む“原因”になりかねない。つまり、“間違った愛情”は、自分にとっても、そして子供本人にとっても“不幸”であり、決して健全と言えない。時に忍耐を教える為に、楽しみにしてたイベントをキャンセルして泣かせる事も、欲しいモノがあっても、敢えて買い与えない事も、更なる知的好奇心を阻害する事も、育児の場面では必要であり、また同世代ではなく、あらゆる人々との接触を増やす為に、時として親が恥を掻く事も、必要な場面もある。公共交通機関での利用マナー然り、映画館や劇場での観覧マナー然り、当然、外食でのテーブルマナーも…である。
宗教の利点は、そういった“公共マナー”を学ぶ事であり、その宗派や教義は違えども、そういう“団体行動”における最低限度のしきたり…つまり、他人と付合う為の礼儀作法を学ぶ上では有益である。が、その思想や教義内容が、世間的に見て“おかしい”と思っても、それを言った途端に“異端児”扱いして排除しようとする、ごく一部のバカな幹部信徒がいると、それ故にカルト化する傾向があるのも宗教の一面。そこんトコは、オイラは敢えて否定しません…どこの宗教も、その“内部構造”は一緒ですからw(おや、誰か来た様だ…)






…失礼。仏教でも、爾前経(法華経以前の教典)では、結構女性軽視な教えが記載されているが、これは、古代のインドでは、バラモン(僧侶)階級は男性しかいなかった事が原因であり、また、高野山大峰山等の麓に“女人禁制”のエリアが存在するのは、地理な事も配慮しての部分…わかりやすく言えば、現代でこそ趣味でフリークライミング”というスポーツ登山があって、男女を問わずに楽しむ事があれど、“聖都”として開拓された、当時の平安時代に登山道を整備してあった訳じゃない。まったくの獣道に、普段歩く事すら制限された、都住まいの女性が踏破できる訳がないんであり、それ故の“制限”である事を理解すれば、納得できる範囲である。それは何も、日本に限った話ではない。どんな“聖地”でも、そこへ行くまでの道のりが険しいが為に、女性に対して“制約”が掛かるのであって、現在の様に交通機関の発達と、多様なルートがある場合、敢えて女性を軽視する教義は、時代にそぐわない事を意味する。そこんトコをわかっていた釈尊は、法華経を説く前に、自分の弟子達全員に“うっそぴょ〜んw”(無量義教での話)と言って、爾前経を捨てる様、突き放したのである。(ま、この言葉を真に受けて釈尊の下を離れた連中が、後々厄介な事をやらかすんだがw で、方便品で舎利弗が、そこんトコをしつこく問うて来る訳でして…)
そこんトコを理解した上で、もう一度、様々な宗教の教義を精査すると、結構“女性軽視”を重要視するエエ加減な教義をやってるトコが多い訳である。つまり、男性の地位向上の為といえど、そこに固執したあまり、本来なら尊ぶべきは神でも教主でもなく、そこに集って一緒に行動している女性であるのに、そこをバカにする事でしか、自尊心を保持できないという、残念で可哀想な思想が多い訳である。ただ、そこには時代背景や、諸般の事情…特に政の殆どは国や地域が双方でぶつかり合う“命懸けの戦場”であるがため、女性や子供達を守る為に距離を置く必要がある…という概念を教義に盛り込んだ為に、後世で誤解される事になる訳で、そこんトコを知った上で女性が政界に、あるいは紛争の最前線に立つ事は、それだけ分男性が“情けない存在”に成り下がった事を意味する。そう、威厳を保ちたいのであれば、バカでも良いけど、それ故の“結果”を残す事が使命であると、自分に言い聞かせるだけの教養と、俗にいう“ムダ知識”が決して無駄ではない事を知るべきである。経験なき痛みや苦悩は、故に相手をバカにする自分の見識のなさを曝け出す。そして、相手を理解したかったら、自分のそれに似合うだけの経験を積む事…それを恐れて遠ざけたなら、故に何もわからない“おバカ”な人間になる事を、身を以て知るべきであろう。それがわかる人程、世間ではバカにされる反面、その実績に名を残す事はしない…無名で良いんです、本当に“エラい人”は。表でふんぞり返ってる人間なんぞ、単なる“お飾り”ですから…w