迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

各々の信念、各々の覚悟…

毎度の事ながら、福島第一原発の事故後、福島県民…特に双相地区の人達に対して、究極の二択を選ばそうという動きが目につく。ただ、それを言っている人が自主的なのか、誰かの意見に振り回されているのかはともかく、どっちの答えを選んでも、それ故の“地獄”を見る事になると思う。でも、そこには各々の“信念”という部分と“覚悟”という部分があってこそ成り立つのであって、それができない者が、結果として道に迷い、そして“最悪の答え”を選んでしまう…これは誰のせいでもない、それぞれが選んだ答えが、たまたま自分の“思い通り”にならなかったからという我侭から来る“結論”であり、そこにもそれ相応の“覚悟”と“信念”があった事を忘れてはいけない。では、何故“人命第一”と“故郷復興”が同時進行でいかないのか?その“答え”は、その二択には皮肉にも、どっちかを“棄てる覚悟”無しでは成し得ないからである。逆を言えば、復興に必要な作業…汚染された土地の除染の為に、その放射性廃棄物を捨てる為に、他の地域が犠牲になる事を“覚悟”しなくてはならないし、危険地域からの離脱は、その故郷を最終処分地として捨てる事を意味する。つまり、どっちを選んだとしても、どこかで誰かに恨まれ、そして嫌われる事を意味している。だから、軽々しく“人命第一”という名目で離れる事を嫌う者もいれば、“必ず故郷を元通りにするんだ”と言って、他府県に多大な迷惑を掛ける事に賛同する者もいる。だか、共通する部分はひとつ…全ては“未来のため”という大義名分の下に、考え尽くして出た“答え”であって、そこの部分では矛盾していない…否、だからこそ矛盾する“答え”しか残されていない。それをどう受け止めるかは、それこそ、本人次第であって、そこに対して当事者が揺らいだままでは、結果として余所者が救済の手を差し伸べても、なんに意味も成さない。

まず、一時でも避難するべきだと言う人は、生まれながらそこに住んでいないからこそ言える感情とも言えよう。阪神大震災や長崎の雲仙・普賢岳噴火の例等を挙げるまでもなく、一度故郷を失った者が、元の場所に戻る事は非常に困難な事であり、まして、災害で失った住民台帳は、復元なんぞ不可能に近い。故に、ドサクサ紛れで戸籍を偽って…もとい、もっと広い土地を取得しようとする者がいたとしても、それを防ぐ術はない。また、三宅島の住民は、今も島に戻って生活する事ができない日々が続いている。そのうち、戸籍上はそうであっても、実際はその“故郷”は避難先の地域…あきる野市や日野市等が“故郷”となっている子供達に、行政が一方的に“帰れ!!”と命令を下しても、帰れる訳がない。それ故に石原都知事も、この事が頭の片隅でずっと引っ掛かっているのは、東京都民なら知っておいた方が良い。当然だが、そういう“苦しい思い”をしてる自治体の長は、何も東北三県の自治体だけではない、様々な事で抱えている問題は、それこそ千差万別である。
そして、どうしても生まれ故郷を尊ぶ人は、たとえ自分の命がそこで尽きようとも、故郷が好きだから…否、大切な場所だからこそ、そこを守ろうと、そして次世代に残してやろうと躍起になる。自分がいなくなっても、地図上に自分が心の底から誇れる故郷の名前が残せるのであれば、それが本望として残る…たとえ歴史上“嫌われた場所”となったとしても、そこに自分の“原点”がある以上、そして、本当に“大切な思い出”がそこにある以上、そこは守るべき“故郷”であり、自らが選んだ“帰るべき場所”でもある。だからこその除染作業であり、双相地区以外の福島県民にとっても、事故で汚染されたという風評を跳ね返そうと懸命に戦っている。それをウエメセで罵っているのは、いうまでもなく、都内で毎週デモをやっているごく一部の連中であり、そういう連中が、いかにも自分達こそが正しいと言ってる時点で、オイラは感情的に許せない。気持ちとしてはわかるが、その前に、自分が“当事者”としてそれが正しいかどうか考える事が重要なのであり、当事者が下した“結論”に対し、批判はしたとしても、行動を阻害する権利はない。それを忘れて抗議をやるのであれば、それは福島県民…否、全ての被災者(東北三県のみならず、去年の台風で被災したなら県や和歌山県、今年の集中豪雨で被災した大分県、そして長野県栄村の住民等)に対して失礼極まりない話だ。
そう、各々の事情と、それ故の“汚名”を負う事になった者が下した“答え”に対して、何人たりともそれをバカにしてはいけないし、また、その結論に至った経緯を知らないまま、責任を擦り付ける事は、同じ立場で、それ故の権限を振りかざしたとしても、誰も相手してくれなくなるだけでなく、自分の幼稚さ故にバカにされるのがオチである。つまり、各々の“信念”に対し、それを批判した以上は、自分もまた、それ故の迫害に遭うのは“当然の義務”と受け止めるのがスジであり、そしてそこに使命感を感じた者だけが、初めて自分の一番の願いごと…それは人様々故に答えは違えど、譲れない願いを叶える事ができる者として体現する事ができる。つまり、他人から意見は聞いても、それに基づいた資料を集めたとしても、それをどう判断するかは、自分自身の信念に委ねられた部分であって、“誰かが言ったから”とか“そういう話を聞いたから”という事で責任逃れをやろうするのは、結局“他力本願”以外の他にない。もっと言えば、その“答え”に対して、結果がどうであってもそれを悔いて、そこで歩みを止めてはいけない。それは、先人達から未来を託された者として、一番やってはいけない“背徳行為”だ。どうしても、その結果が悔しいと思うなら、その結論が自分として納得できるモノでないと思うなら、それを反面教師にして、次世代の者に教えていく事が、次の“使命”と考えるべきであり、そこで諦めるのは、結局自己満足の論でしかない。それを怠ってきたから、今の政界がグダグダなのであり、自分の価値観のみで相手を批判し、国民を見下す様な政治をやっている様では、どんな救済案でも誰一人救う事はできない。
強い信念とは、時として妄信的な部分を孕んではいるものの、故に決して迷わない。そして、それ故の覚悟…それは時として他者からバカにされ、時には自殺したくなる様な苦悩に苛まれる事もあるが、それをも自分の“財産”として受け入れられる懐の深さ、大きさを兼ね備える。そう、バカにされる事を“当たり前”だと思える様になると、ちょっとした事で褒められたり、意外なトコで賞賛されると、それがとても嬉しく感じる様になる。もっと言えば、本当に忍耐力がある人程、ちょっとした事でも喜びを見つけられる楽観主義者でもあるという事…何度傷付いても、どんなに破壊されても、そして何もかもを失っても、そこから立ち上がれるのは、次世代を思う“まっすぐで純粋な心”が、キチンと自分自身に備わっているからこそ。それがわからない…否、それを忘れた人程、そういう“強き者”の存在を妬み、羨ましいからこそ破壊しよう、奪ってしまおう、そして消し去ろうと躍起になる。そんな事をする情熱があるなら、もっと他の部分でそれを活用すれば済む事を、どうしても自分自身が認められずにいる事が許されなくて、自分に分相応ではないと思うあまりに、自分が一番“醜い”存在になっている事がわからないまま、自らを破滅に追い込む事になる。だからこそ、相手の存在を認め、そして尊重し合える様、自分自身を律する哲学を学ぶ必要性があり、その為のツールとして、宗教を学問として捉える事も、ひとつの選択肢だと、オイラは考える。そこの部分で、人間に則した宗教であるならともかく、そこから逸脱してると思うなら、そこは無視していい。ただ、だからと言って自分の親友がどんな宗派の属してるかを気にするのは、愚の骨頂。純粋に相手を想うなら、そこに囚われるのではなく、純粋な“一人の友人”として付合ってやる事が、本物の親友です。たとえ意見が食い違っても、社会的地位や年齢が、そして性別が違っても…