迷馬の隠れ家 はてな本館

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潜在意識にある差別を克服するには…

 【ニューデリー=岩田智雄】パキスタン北西部スワト地区で9日、ブログなどを通じてイスラム武装勢力パキスタンタリバン運動(TTP)」を批判していたマララ・ユスフザイさん(14)が下校のためにスクールバスに乗っていたところ、TTPの銃撃を受け、重体になった。政府や軍は10日、TTPの蛮行を強く非難している。

 フランス通信(AFP)などによると、ユスフザイさんは、頭や肩に銃弾を受けた。

 マリク内相は「彼女はわれわれの誇りだ」と述べ、キアニ陸軍参謀長はペシャワルにある収容先の病院を訪れて「野蛮な考えの扇動者とその支持者と戦うために立ち上がるときだ」と訴えた。イスラマバードでは、事件を非難するため、下院が審議を延期した。

 TTPは声明を発表し、「われわれを邪魔する女はすべて殺す」と犯行を正当化し、ユスフザイさんを再び狙うと宣言した。(ry
(by:産經新聞 10月11日付)

歪んだ宗教感は、時として殺戮を“正義”とする教えを構える。しかしそこには、悲しい位に“弱い”立場である事を隠す為に破壊力を誇示し、自分自身の“我侭”によって、既に宗教倫理の根幹である“平等”を自ら否定して、本当の意味での“不幸”を自らが願っている事にすら気付かなくなっていく…ムスリル(イスラム教)だって、否、その教主であるムハンマドだって、こういう“不本意な殺戮”は自らが説いた教義にはなかったハズである。それを歪めたのは誰か?宗教そのものを嫌う前に、まずは宗教の教義そのものが“歪む”最大の“原因”を、オイラなりの観点で説いていこうと思う。それにしても、未だにこういう教義(女人軽視)がまかり通ってること自体、よっぽどだと思う…

日蓮仏法において、“佐渡御書”の一節に

悪王の正法を破るに 邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は 師子王の如くなる心を持てるもの 必ず仏になるべし
(業務連絡:今月の“大白蓮華”掲載部分の抜粋です)
という言葉がある。この14歳の“勇者”は、まさにその通りの行動を取ったまでであり、TTPの連中がやった行為は、むしろこの御文でいうトコの“邪法の僧等”に該当する。つまり、古い観念でいつまでも民衆を縛る事ができるという部分のみでやった行為は、相手が子供であっても“恐ろしい”と感じ、そして、女性である事を理由に見下しているだけである。当時の日蓮ですら、女性の存在の大切さを、男性信徒に対して切々と説いているし、当然、釈尊の教えにも(特に法華経には)女性を軽視する男性は女性よりも“ちっさいw”と説いてたりする。つまり、男女の違いは各々の役割によるモノであって、教養や知識等は誰であっても学ぶ権利は平等である。逆に、それを男尊女卑の教義を“正義”とする場合、忘れてはいけない概念がある。それは、圧倒的な“体力差”である。もっと言えば、女性は“子供を産む道具w”ですから、基本的に“読み書き計算”よりも“家事・育児”に専念させるには、余計な教養を身に付けない方が、男性としては他の事をやるのに好都合とも言える訳であり、また、生物学上“オス”というのは生殖機能以外は“役立たず”というのが定説である。つまり、そこんトコを“どうにかしたい”と思うから、聖職者である者が女性を“軽視する様に”教義を曲げた…と解釈すれば、TTPの連中がやった行為は、世界中から批判されるのは当然の話であり、また、その行為だけで、他宗派…特にキリスト教にとっては、好都合な“攻撃理由”になるだけの話である。逆を言えば、自らの過ちを糺さずに相手を批判すれば、当然自らも傷付く事になるのに、それが“わからない”訳である。
この話は、中国の人民…特に貧困層反日感情を植え付けられた若者にも言えた話であり、また、韓国の反日ネチズンや日本の極右・極左にも言えてる部分である。そう、自らが掲げた“歪んだ正義”が、却って自らの首を絞めている事に気付かないまま、話が平行線を辿るのである。また、宗教感でも同じで、エホバの証人と他のキリスト教では話がチグハグになるのは、元々の教義の“捉え方”自体が違う為である。当然、同じ日蓮仏法の系譜である創価学会日蓮宗他派では、その考え方や行動に違いがあるのは、そういう部分の歴史があるからで、他派…特に身延系は、自宗の存続の為に、時として政権側の言いなりになった教義を構えていた時期がある。一番近い話でいえば、太平洋戦争の頃、当時の軍事政権下において、全ての宗教が日本で布教活動を行う場合は、天皇支配下である証として、伊勢神宮の札を奉る様、強要された。創価学会の前身である創価教育学会もその打診を受けたのだが、御金言に則って拒絶を表明した事に対し、軍事政府は不当なまでの弾圧を敢行したのである。しかし、大石寺や身延の連中は、この弾圧を避ける為、敢えて札を受ける事を選んだ…もうお解りいただけるだろう。時の流れに身を任せながら、無責任な事をやった当時の宗門は、結局、“強い日本”に導くどころか、国そのものを更なる“不幸”へと叩き込んでしまった訳である。その“反省”があるからこそ、学会員は選挙の度に躍起になるんです。
休話閑題…というか、脱線話の続きになるかと思うが、自分の事として国を憂うのは、誰にでもある感情だ。しかし、だからと言って、いつまでも“他力本願”のままでやっていけば、いずれその憤懣は、自分自身を狂わす事になる。そう、既成政党の腐敗ぶりに対して辟易してる国民を無視して、ただ単純に“議員”という職種に縋り付いている輩なんぞ、なんの価値がある?しかしそれ故に、臆病者は本当の“勝負”の仕方を知らない。小泉政権が今でも評価される最大の“理由”が、この“潔さ”(法案成立の為なら、早期解散も内閣改造も厭わない態度)である。野田内閣にそういう“根性”がないのは、言ってみれば、そのバッジが持つ“職務”の重さを軽視してる、動かぬ“証拠”である。そういう事に辟易してる者が、一番陥りやすい行動は、究極の“二択”しかない状況で、思考を止めてしまう事である。そう、公明党日本共産党以外の選択肢しかないの状況下おいて、どっちも“選べない”というヤツである。今の時点で日本維新の会という“選択肢”が残ってるとはいえ、単なる“ハリボテエレジー”な政党に期待するのは、競馬でいうトコの“大穴一発de一攫千金w”を夢見てるのと一緒であり、また、その裏側に回れば、かつてのミニ政党がどうしてもその“バッジ”欲しさに集まった烏合の衆であり、3年前の“民主党フィーバー”と同じである。また、自民党が嫌なのであれば、当然、その選択肢は民主党社民党にするべきであるハズなのに、その“対抗勢力”自体が“コレ”であるw そら、若年層の投票率下がるわw しかもマスコミを使って大々的に“反創価”のプロバガンタをやった訳だから、公明党に対して“カルト”呼ばわりすれば、必然的に日本共産党以外の選択肢しかない…ここまで言って、絶望的になった人、挙手w
そう、ここで気付くべきなんです。自分が“狭めた”考え方をどうやって広げていくか…実のトコを言えば、差別の裏にある感情は、常に自分自身の、他者に対する“劣等感”であり、相手の才能や行動力を羨むあまりに、それを自分の中で“完全否定”したくて、最終的に野蛮な行為…つまり、物理的に相手を傷付ける事で、自分の“満たされない欲求”を無理矢理満たそうとする訳です。もっと言えば、“素顔の自分”と向き合いたくないから、弱点を突かれると威嚇するんです。これ、動物の本能的な部分とまったく一緒で、どんな肉食獣でも、そして温厚そうな草食獣でも、実は自分から見て“異形”と思うモノに対する、本能的な恐怖感から暴力に発展するのです。昨日の富士サファリパークでの事故でも、生まれたての仔象を“排除”しようと母象が暴れたのを止めようとして巻き込まれたのがそもそもであり、また、繁殖期のメスは普段以上に警戒心が強く、とても危険な状況だった訳です。言ってみれば、ある意味“仕方ない”状況だった事が推測されます。が、だからこそ、細心の注意を払う必要性があったのです。
ま、話があらぬ方へ向いてしまった訳だが、要するに、こういう事“しか”できないと自分で決め込んでいる以上、その“選択肢”が狭まるだけでなく、自分の掲げた理想や信念が、いつの間にか歪んでても、気付かなくなるのです。その結果、更なる“不幸”を自らが望んでると気付かぬうちに、事態は更に深刻になり、その閉塞感から“迷う”事になるのです。

教訓:他者を批判する時は、自分もまた批判されて当然。自分の“可能性”を狭めているのは、結局は自分自身の我侭である事に気付け。