迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

自らの責任を放棄する事で、世界は破滅する…

いつ解散になるかわからん衆院選の話よりも、もっと具体的な事を。それは、今、国会で審議されている人権に関する法案が、ドサクサ紛れに“法案通過”という状況であること。そもそも、予算編成云々が先なのにも関わらず、こういう“どうでもいい事”が問題になる背景には、有権者であるハズの日本国籍保有者自身が、政治に関心を持たず、そして、成すべき義務を“放棄”してる事に原因がある。つまり、自分自身の“責任問題”すら、他人に任せてしまっている事である。ここまで、他力本願なままで放置していれば、そりゃ、変な法律が成立しても文句言えませんよ。マジな話。

つまり、昨今の在日外国人への参政権もそうだが、肝心な日本人自身が選挙権を“放棄”してる時点で“国民の総意”を聞こうとなれば、外国籍でも一定期間…仮に3年以上という条件を付けて定住すれば、参政権を与えるというルールが成り立てば、投票率そのものが上がる事にもなる。が、ひっくり返せば、それは地味な“他国侵逼難”を容認する様なモンである。要するに、投票率が下がる最大の原因は、政治家自身の“エエ加減さ”がそもそもではあるが、それ故の選択肢を、マスコミ自身が狭めた結果、有権者は“選挙権の放棄”をもって、政治に“抗議”してる事に、政治家も、そしてマスコミ自身も気付いていないのである。ま、それを“好都合”に諸外国…特に中国や韓国・北朝鮮籍の連中がいい様にやってる…という噂が立つ訳で…w
オイラは選挙の度に、絶対に言ってる言葉がある。このBlogでも何度も言ってるが“究極の二択”を迫られた時、あなたはどっちを選ぶかって事…共産党的なカルトがいいか、創価学会的なカルトがいいか…その“極論”に対して“そんなのねーよw”って笑う人が多いが、実際問題、投票に“行かない人”の大半は、自民党にも、そして民主党にも“変化が期待できない”という絶望感から現実逃避する為に“選挙に行かない”のが本音であり、変化を求めた者も、今までの“ぬるま湯生活”に馴れてるモンだから、急激な変化に対応できずに落ちこぼれて、そして世間から“ドロップアウト”するのである。そう、選挙に行かない人達自身が、実は今の日本が“混迷する原因”を生み出してる事に気付いていないのだ。
本気で“変わりたい”と願うのであれば、それ相応の“覚悟”を決める事が必要である。それは時として、様々な公共サービスの“廃止”を伴う事でもあり、また、税金が“増加”する事でもある。わかりやすく言えば、各地の電力会社で、電気料金の値上げが発表されているが、その“原因”として、火力へ依存する為に必要な費用…その中には原発廃炉する為の“準備費用”も含まれていると考える事が胆であり、単純にその値上げに反対するのであれば、自家発電にするか、原発稼動を渋々容認せざる得ない事を意味する。つまり、サービスを充実させるには、それ故のコストを考えて料金設定が成されている事に気付かないといけないのに、そこを無視して値下げ要求する事は、程のいい“強盗”と同じである。逆に、自由設定で必要以上のサービスを“断る事”こそ、エンドユーザーの“権利”であって、そこを強要する様な建築業者や機器施工者は、既に“下心ミエミエ”である。オプションを無償で付けるのであれば、それを“断った”相手に対してどう交渉するかは、ディーラー(販売店)の腕の見せ所であり、エンドユーザー(消費者)とディーラーが本気で“喧嘩”してこそ、実はいい商品は長い間、多くのユーザー(利用者)に支持されるのである。これは、CM云々ではなく、地道な“営業努力”の賜物であって、そこんトコを忘れた営業方針等は、ディーラーもユーザーもうんざりして当然である。コレを同じで、国民を振り回して好き勝手やる以上は、それ相応の“責任”を負ってこそ、為政者としての“仕事”をやった事になるが、今の政治家…特に、民主党中心の政権下になって3年間、そういう“場面”は、オイラは見た事がない。もちろん、マスコミも…である。
どんな地域でも、そして企業でも、重要なのはその“組織”に与する者自身が、自分の“役割”に誇りと責任を感じて常に行動してるかであって、その結果を評価する“基準”に、種族や出身、学歴等のファクター“のみ”で語る事は、邪推である。また、過去の実績“だけ”で判断してる様では、それを期待するあまりに、更なる精進を怠る事になる。過去はあくまで“過去”であり、それが現在進行形でも通用するとは限らない。そこを見越した上で検証するのがスジであって、始めから“解答ありき”な状態で物事をやっている様では、何も進歩しないし、むしろグダグダになる。つまり、人を集める時はダボハゼでもいいが、役割分担を決める時に、当事者が責任感や使命感を感じて行動できるかどうかを考えた上で振分けないと、その部下は(いろんな意味で)苦労する事になる。また、与えられた使命を“放棄”したのであれば、それ故に自分の“居場所”が無くなって当然である。今の若年層が高齢ホームレスを襲って殺害する背景にも、そういう部分が見え隠れしている。そう、折角の“能力”を封じた上で活用できる場所がないから、その“程のいい標的”として、社会的弱者を甚振るのである。(実際は“明日は我が身”という恐怖心が、そうさせてるのかもしれないが…)
何度も言うが、自分が“変わりたい”と願って行動してる以上、何らかの障害があって当たり前なのであって、その“苦痛”を嫌がって逃げるのであれば、その苦難を乗り越えた人々…コレを“勝ち組”と称するなら、その人達に嫌味を言ったり没落させようと躍起になっている自分自身は、そういう人達に“負け”て当然なのである。身障者の人でも、本当に自立してる人は、周囲に迷惑を掛けている自覚と同時に、最低限の責任を負っている。“健常者”には当たり前な事でも、様々なハンデを持ってる者にとっては、できるはずのない行為も多々あるのであって、そこを理解したくても立場が違う故に、どうしてもバカにしたり、そのハンデを勝手に“可哀想”と思う訳である。言っておくが、先天的ハンデと、事故等でそうなった人では、精神的なハンデが違う。そこを踏まえた上で身障者を見てるならともかく、そうでないなら、奇異の目で見るのは、やめた方がいい。でないと、自分や知人等、身近な者がそうなった時に、どう接していいのかわからなくなるから。不治の病で余命僅かでも、事故に巻き込まれて機能を失ったとしても、普段通りの接し方をやり続ける事こそ、本当の意味での“平等”である。もちろん、最低限の補助は必要かもしれんが、当事者がそれを望むかどうかは、その“瞬間”にならないとわからない。厳しい言い方だと思うが、変な気遣いをするよりも、それこそ本人がハンデだと感じるまでは何もしない方が、却っていろんな事を学べ、考える事ができる。悲嘆に眩れるのではなく、これも自分自身が選んだ道…そう悟れる様になれば、変わる事ができる。その力を有していながら使わないのは、結局は今の自分に甘えているからであり、保身の為に自分を捨ててるのと一緒。自らの信念に命を変える事ができない人ほど、結局は物欲やちっぽけな自尊心ばかり求め、落ちぶれるのです。