迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

不幸を“願望”する者の心理

上記のタイトルを見て、またバカげた事をいうのでは?と思った方、挙手w でも…これって“現実”の話。なんでも、この年末に開催されるコミケの準備組織宛に、多分悪戯のつもりであろう“脅迫状”が送付されていたというニュースがネット上で流れている。もちろん、コレが“話題”になった事で、恐らく“犯人”は満足であろう。なんせ、主催者に直でコンタクトを取るということは、一度でもそういうイベントに参加したり、あるいは、参加選考でボツった経験者であるからで、普通、そういったイベントに関心がない者や、そもそもこういう賑わいに不快感を持ってる者が、わざわざテロ紛いな行動をする事はない。何故って?煩わしいからです、そういう会場の不特定多数を相手に殺戮なんて。想像する事はあっても、それを“実行”する度胸もなければ、第一、人間との関わりを断とうとする者が、本当にそんな事すると思います?そう、罪を犯してる者の大半は、いわゆる“誰でも良いからかまって欲しい”という願望故の行動であって、もっと言えば、自殺や万引き等の行為は、あくまで相手してくれる存在を探す“きっかけ”でしかないのです。

もっと平たく言えば、要するに孤独感や喪失感を“共有”して欲しいからの我侭であり、それ故の活動なんです。これは、精神的に追い詰められた者にしか感じる事のできない焦りであり、また、当の本人が望んだ“結果”です。それを自らが否定し、そして周囲の“日常”を否定する事によって、自分の存在感を得ようとする“手段”として、他者の“不幸”を自分の“幸福に変換する術”として望むのです。つまり、“みんな死ねば良いのに”とか、“リヤ充爆ぜろ”とか、“何で自分だけ…”という概念の殆どは、自らが“捨てた”幸福への選択肢を悔いているのと同時に、ずっと一緒にいて欲しいという願望です。もっと言えば、自分基準の幸福論を他者に押し付けて、単一化しようと思うからこそであり、それはひいては、自分以外の存在をも“否定”してる事に気付いていないのです。そう、単純に“凶悪犯”と言えども、その心理の奥には、様々な“事情”があり、そこを理解しようとこっちが耳を傾けても、まず本人との“信頼関係”が存在しないから、真実を話す事等ありません。当たり前ですが…
でも、本当に重要なのはそこではありません。実は、その感覚は自分自身にも“ある”という自覚が不可欠であり、周囲からの意見を“聞きたくない”と否定した時点で、既にこういった犯罪者と同じ心理に陥っている可能性があります。そう、未だに即時の原発廃炉を求める人々や、脱原発を“正義”としてる人々の“心理”も、実はこの範疇ですし、いわゆる“カルト化”する人の大半は、この“闇の心理”に陥って抜け出せなくなった、ある意味、意固地になり過ぎて自分の姿を見失った状態なのです。確かに、宗教も教義によってはそういう部分に陥る傾向がある訳ですが、そこんトコをどうコントロールするかは、実は本人と周囲の関わり合い、接し方にヒントがあるのです。ま、今回はそこんトコの説明に関しては“別の話”なんで割愛しますが、自分と“同意しない者”までも巻き込んでしまおうとする人ほど、かつての大日本帝国…否、軍事政権下の日本と同じで、強引な方法でやり過ぎて自我を失い、多くの人々を不幸にさせた経緯を、ものの見事に“踏襲”してるのです。つまり、相手の個性よりも自分の思い通りにならない事を“不幸”と考えるあまりに、本当の“幸福”から外れたトコに幸福を見出そうとして、結果、自分自身の居場所も、大切な宝物までも失った挙げ句に“暴挙”に出るのです。そんな“不幸な自分”を消し去りたいのと、そんな自分の事を、多くの人に“覚えてて欲しい”あまりに…
本当に、自分の存在を“消したい”と思うのであれば、わざわざ凶悪な犯行をやろうと思いませんし、遺書だって残しません。まして、死ぬ事を決意したのであれば、まず身辺整理をした上で、ある日突然、しかも誰にも悟られない様に、その場を立ち去ります。それが、本来の“自死”であり、スマートな消え方です。しかし、それは不可能に近いです。なぜなら、必ず自分の事を思い、その“存在”を認めてくれる人がいる限り、必ずその死を悼みます。そして、憎まれようとも、恨まれようとも、その存在感がある以上、自分が否定しても、また、他者がその死を侮辱したとしても、そういう形式での記憶として、多くの人々の中に存在し続けるモノです。つまり、逆を言えば、本当に“孤立無援”な人であるなら、たとえ死んでも誰も気付きませんし、まして悲しむ人もいません。それどころか、存在そのものがありませんから、何も遺りません。本当の“孤独”とは、人とのふれあい・交流があったからこそ感じる事ができる“感情”であって、最初からひとりぼっちの状態なら、そういう感情がないまま、しかも人との接し方がわからないままであり、そこから問題行動を起こそうという発想も思い浮かびません。むしろ、そういう人を無理矢理、しかも突発的に集団生活の中に放り込めば、それ故の“障害”を感じる事になります。
逆に、そういう集団生活に慣れている人にとって、突発的に独りになると、何をしていいのかわからなくなり、一人で解決させなければならない事案でも、それとなりに他者の経験や感想を求めようとします。しかし、その“解答事案”がまったくない時、絶望感に打ち拉がれますし、まして前例や実験結果がないですから、失敗を恐れるあまりに何もできないまま終わるでしょう。それを双方が“理解しろ”と言われても、そんなのは無理です。だって“他人”ですからw そう、立場の違いや関係性を無視して、ただ単純に相手を“批判”すれば、当然ながら相手も不愉快であり、また、理解を求めようとしても食い違うのは当然です。が、根本的な事を言えば、無視される事が辛い人ほど、実は独りになりたがる習性があり、その逆に、いつも孤軍奮闘する人ほど、本当は集団の中でラクしたい訳です。つまり、そこの“温度差”が、結果としてあらぬ方向へ行ってしまわない様にする事は難しい事であり、また、その方向へ行った者が戻る事はありません。もし、戻る事ができたのであれば、それは何らかの喪失感や絶望感から自分を奮い立たせ、戦ったからこそ勝ちとった結果であり、相当な“恥曝し”です。しかし、それをモロともせずに立ち向かえる勇気がある者は、故に、どんな状況にあっても、一線を越える事はしません。むしろそのギリギリのところで自律を促し、そして相手を諭す事もできるのです。だけど、それができない人…否、そういう勇気をバカにしてる人の多くは、羨ましいから、そして、他人にバカにされたくない一心で、自分自身に“嘘”をつくのです。目の前の犯罪者と自分の心が、どこかでリンクしてる事を否定して…