迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

信頼なき“絆”は“愛”とは言えない…

こんな夜中に目が冴えて、ちょっとTwitterを読んでたら、“それ、おかしいんじゃね?”と思うネタがあった。それは、昨今の子供虐待は家族間の“絆”が強過ぎるからだという指摘…でも、それって“絆”じゃないと思う。本来、絆は互いの信頼関係あってこそ結ばれるモノであり、それは家族間であろうと、組織であろうと関係無く存在する、精神的な“束縛”である。逆を言えば、家族の絆といえど、そこに“愛情”という感情が欠けていると、単なる束縛であって、柵(しがらみ)でしかない。

そういや、7年前に努兄がラジオで“愛”には五つの段階があって、最後は“情”しか残らない…って言ってたが、そこんトコを深くツッコめば、この“愛なき束縛”の意味に通じると思う。つまり、相手を深く思い、そしてお互いが“必ず自分を愛してくれている”という信念なき行動こそ、実は現代社会における、勘違いした“絆”論だと…
よくよく考えてほしいのだが、今の核家族化の最大の原因は、祖父母…というより嫁姑問題の“成れの果て”であり、嫁いだ“余所者”に対し、“母”である者が、自分の子供が“自分から離れていく”事を恐れるあまりに、血縁上の“余所者”である存在をイビる…その結果、子供達はそんな両親を憎み、その袂を分つ方向へ行く…それが廻りまわって自分達が“親”となり、同じ過ちを繰り返せば、高齢となった時に寂しい思いをする。そして、ちょっとでもその“寂しさ”を紛らわそうとすれば、必然的に他人との関係性よりも“肉親”である子供や孫に対して、イイ格好をしようとする…もうお気付きであろう。尼崎の親族変死事件も、実は“愛なき絆”が招いた結果論であり、その“絆”の拠り所が家族…ではなく、その“関係者の金銭”に向かったまでに過ぎない。オウム事件も、あさま山荘内ゲバも、結局は相手を想い、相違する意見をも全て呑み込んでやれるだけの度量も、そして相手を“信じる”という単純、且つ、重い責任が生ずる関係性をも否定した結果でしかない。それはのちに、中国やアメリカの“現状”にも繋がっている部分。
宗教というモノは本来、そういった民族間や地域間の“異文化”を如何にしてわかり合えるかを突き詰めた上で成り立つ“哲学”を、多くの人々が信ずるかどうかでその価値が決まるのであって、そこには、言語の壁や習慣の違い等を乗り越えた“信頼関係”をもって結束した集団としての“絆の証”である。言ってみれば、同じ宗派と言えど、その宣教師…布教活動者の感覚如何で、どんな解釈にも受け止められるモノであって、それをどう“信じる”かによって、正邪が分かれると言ってよい。だから、同じ会派の人でも、実際の教典をどういう風に解釈するかで変わってくるし、それは時として、それ故の狂いも生じる。しかし、そこんトコを突き詰めると、最終的には他者とのコミュニケーションにおいて、傷付け合う事でしか“相手”を理解できない…という悲劇に見舞われるのである。何度も言うが、どの宗教でも本来、人類の繁栄と平和を論じた哲学を基軸にした存在であるのに、その“絶対条件”を勝手に決めつけている以上、宗教感における諍い…いわゆる“宗教間戦争”が勃発するのである。この感覚と一緒で、本当の“愛”とは信頼関係における“絆”であって、それは必要以上の“束縛”を意味してはいない。しかし、社会情勢…というか風潮で、カタチだけの“絆”や“愛情”を論ずる者が多過ぎて、それ故に本当の意味での“信頼関係”が構築できないまま“家族”という最低単位の“社会”すら崩壊してる訳である。つまり、親が子を思うあまりに…否、親がいつまでも子供の“人格”を否定して占有化しようとするから、形式上の“家族”以外での結びつきを否定する様になり、また、子供も親の“過剰な期待”に答えようとして無理をするから、時として他者から否定され、傷付けられると、それ故の憤懣を親だけでなく他者にまでブチ撒ける様になる。もっと言えば、親子間での信頼関係そのものが崩壊してるのに、それでも法律上の“家族”であり続けようと無理するからおかしくなるのであり、そこの部分の構築を放棄した状態では、結局絆そのものが、単なる“家族”という名の“拘束具”になってしまうのである。
日蓮仏法における“信頼関係”とは、どんな困難に対しても、決して諦めない勇気と、どんな相手にも仏性はあるという強き信念によって成り立つ…とされる。つまり、どんなに迫害を受けようと、たとえそれが因で社会からドロップアウトしようとも、自分自身の生き様に誇りが持てるのであれば、それ故の行動を起こす事もできる。それを素直に信じられるかどうかは、自分自身がその“立場”になった時に結果として現れる…法華経の行とは即ち、深き“信頼関係の構築”に不可欠なのは、自らの純粋なまでの信心であり、それ故の振る舞いに、決して自分から否定しない事にある。いわゆる“やらない善よりやる偽善”を突き詰めた先にある、金銭や物質的、あるいは法律的な付き合いではなく、どこまでも“相手を想う”気持ちからの行動を、理解してもらおうと相手に訴えるのでなく、当事者自身が気付くまで付合う事である。たとえ、気持ち悪がられても…但し、どんなに相手を想い、施しを尽くしたとしても、相手が何も感じない…否、既に“常習化”してる様であれば、そこの部分で推し量る為の叱咤も必要となる。ま、“摂受折伏は時による”と言うが、そこの部分の“使い道”を間違えれば、故に“絶縁”される事もある訳で…w
閑話休題。つまり、巷で叫ばれている“絆”というのは、結局のところ、自分の精神が寂しいが故の束縛であって、相手を思いやり、そして慈しむ“愛情”が欠けた繋がりでしかない…ということ。逆を言えば、どんなに離れていても、そして音信不通でも、本気で相手を想い、慈しむ気持ちがあるのなら、それ故の縁で結ばれている…そう“信じる力”こそが本当の“絆”であって、それ以外の形式での関係は、単なる“束縛”でしかない。それが理解できないから、民族や言語、文化等の違いを罵り、相手を見下す事でしか、自分自身の“精神の渇き”を潤せないと勘違いするのである。本当は、どんな格好でも相手を想い、慈しむ姿が“羨ましい”から妬むのであり、また、自分自身が持てる“愛情”を、自分自身が否定し、信用していないからこそ、形式だけの“縁(えにし)”ばかり求めるのである…本当の愛は、情に流されるのではなく、自分自身の信心から出る行動である。