迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

指導者こそ、受講者のペース配分を“読む”べき!!

女子柔道のゴタゴタにしろ、いじめや体罰の問題にしろ、根本的な問題解決に至らない最大の“原因”は、結局は“他力本願”である事が全て。つまり、指導者や主犯格が相手のレベルや知能をバカにし、見下してる以上は、改善されるどころか、ますます悪化するのは、ある意味“当たり前”的な話であり、本来は、当事者を含めて全員が、この問題に対して“連帯責任”を負う事にこそ、改善策を見出す手がかりはないとも言える訳であり、そこんトコを勘違いしてると、結局ギクシャクしたままで、組織そのものが空中分解する訳である。ぶっちゃけた話、創価学会がここまで組織形態がキチンとできていたのは、幹部も部下も関係無く、ひとつの物事を“我が事”として考える哲学を、それも初歩的なトコから学んでいるトコに全てがある。つまり、異体同心…役目や立場が違えども、各々の関係性を考え、行動する事によって、組織全体の底上げをやっていく…という根幹があるからであり、その為の基本が、日蓮仏法における法華経の解釈であり、それを学ぶ手がかりとして“御書”を用いる訳である。そして、それを如何に解り易くするかを考えた時、五重相対で最も始めに切り捨てられる“外道”…すなわち、異文化・異教徒の哲学を用いる訳である。もっと言えば、それこそ“摂受・折伏時による”の御金言そのものと言っていい。

園田監督の件で言えば、選手としては頭脳派でも、指導者としてはそれ故に受講者の知能を見下してるトコがあったからこそ…と言えるのではなかろうか?つまり、知性派であるからこそ、相手もそれ相応の知性と理解力を要求し過ぎるから、結果として自分の想い通りの指導ができないのであって、逆に受講者の立場になって、指導方法を変えていれば、なんの問題も起きなかったと推測できる。つまり、相手をバカにするのではなく、自分が相手のレベルに合わせてやるくらいの器用さが必要だったのに、そこまでの“配慮”が足りなかったからこそ、選手に“嫌われた”と考えても差し支えがないと思う。逆に、みんながそういう頭脳派の選手であったなら、余計な指導もいらないだろうし、監督としての指導も、戦術よりもより高度な技術に重点を置けたであろう。
桜宮高校の体罰も、また然りで、これもまた相手が自分の見込み違いなヤツだったと思い込むから、結果として生徒の人格までも否定する様な指導になる訳であり、それを見ていた他の生徒・部員も、ここで歯向かえば今までの苦労が…という思いが先走り、結果として巻き添えを喰うハメになっただけの話である。全く以て逆だ。時に歯向かい、そして傷付いても自分の意志を貫く事、更にそれを満天下に示してこそ、初めて指導者も自分の過ちに気付く事になる。一番わかりやすい事を言えば、ペット…特に犬の飼育をしてる時に、飼い主との信頼関係があっても噛み付く場合があると思う。しかし、普段からクセで噛み付いたり吠えるのであればともかく、何らかの危機を察して、その“警告”としてやったのであれば、それは、その指示に従わなかった飼い主自身の背任であり、それが許せなかったから故の行動は、人間である以前として、相手を思いやる気持ちが欠如したが為の“事故”と考えるべきであろう。
どっちにしても、自尊心があまりにも強過ぎる人程、相手と対等に接する術を知らない人が多い。つまり、自意識過剰故のコミュニティー障害…っと言って良い。ま、この先に部分について具体的例は、ブロマガで後日公開するとして、ようするに、指導する側が相手を見下してる以上は、結局思い通りの結果を選手に、あるいは配下の者に求めても、そうならなくて当たり前であって、また、師匠の傲慢さを許す様な弟子や支持者は、故に所属する組織そのものがグダグダになっても、抜け出せなくなる。そう、かつてのオウム信者がそうである様に、自らが信じた指導者の期待に応えようとして、却って世間から逸脱する様になったのと一緒で、自分自身の立場上、逆らえないと“思い込む”様では、組織改革も無理であり、また、その為に自分自身が果たすべき役割を恐れてはいけない。そう…病の数だけ様々な医療技術や新薬開発の“モルモット”が必要であり、またそれ故の犠牲は、必要不可欠な部分である。それを承知の上で、難病患者は医師や研究者に、自分自身の生体データを提供し、また、それ故の治験を受ける訳である。逆を言えば、特別な存在として自分を扱って欲しいのならば、それ相応の差別や批判を甘んじて受けるのがスジであって、それが嫌ならそういった“権利”を放棄する方が、一番賢い選択だと気付かなければならない。
話が脱線したついでに言っておくが、いろんな意味で、お互いにバカだからこそ“対等”である事に気付く事が、実は人間が人間としての尊厳を守る唯一の術であり、そこんトコを法華経として説いた釈尊である。つまり、下種仏法の根元は、どんな可能性も何人たりとも保有してるのであって、それを用いるか否かは自分次第であり、その才能を活かすも殺すも自分の使命と符合するかどうかだって事。専門分野から外れた知識も、それを上手く活用できる人は、故に指導方法も相手によって変えられる器用さと余裕がある。逆にそういうトコに疎いと、いくらこっちが丁寧に説明しても、理解されないままで失敗を招く事になる。だからこそ、学ぶときの姿勢が…と言ってる指導者は、むしろ相手を“選び過ぎ”であって、むしろ柔軟に対応できる知恵と技能を身につけようと受講者とともに鍛錬する人でなければ、結果として成長しない。真の“名伯楽”とは、単に才能を見抜くだけでなく、相手に合わせた指導方法を上手く組み合わせる事ができる、本当の意味での“愛すべきバカ”でなければならない訳である。単にクソ真面目な人間を貫くだけでは、いろんな意味で“迷子”になるだけです…いや、マジで。