迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“無力”という名の“破壊力”

古今東西の極悪犯罪や教育現場での暴力沙汰、更には抗議の為の自殺等には、ある共通項がある。それは、被疑者および被害者自身の“無力感”というヤツに囚われている事…財力や体力、学力等、様々な“力”に対して、他人と比べる度に感じる“劣等感”が心理的に及ぼすと、それがあらぬ方向へ吹き出る事になる。つまり、暴力のおよそは、自分の“思い通りにならない事”に対する“憤懣”であり、明確な目標があったとしても、叶えられる可能性が“低い”というだけで絶望する“虚しさ”が、他者の才能や行動を妬み、蔑む様になる訳である。そう、満たされないからこそ、それを慰める術として“暴力”を振るい、他者に対して見た目の強さを誇張する事に躍起になり、根本的な事を度返しして“復讐”をしようとする訳である。逆を言えば、全て自分の“思い通り”になっていれば、ここまで暴力を振るう必要もなければ、ヘタに見た目や力に拘る必要性もなくなる…と言えば大袈裟かもしれんが、実際に大事に至る寸前で回避できた可能性はある。そこを論じずに問題を見たところで、なんの解決になるだろうか?

重要な事は、事件の中心人物は一人として“同じ”ではないということ。しかし、根幹的な部分では、よく似た事案はいくつかあって、その中のひとつに当てはまっている事が多いから、却って勘違いするのであって、世代や経験によっては、考え方や犯行動機はまさに多種多様。単純に“叶わぬ願いごと”という観点のみで語れば同じに見えるが、事件に行き当たるには、そのきっかけとしては“データ不足”としか言い様がない。むしろ、どっちの結果であっても、それは被疑者・被害者どちらに対しても“可哀想”と“辛かったんだね”としか声の掛け様がない話だからだ。
では、何故人は途方もない問題に対し、解決が困難だと悟ると“無力だ”と嘆くのか?その答えは人様々ではあるが、たった一点だけいえるのは、その“無力感”に酔いしれるのか、それとも立ち向かうのかで答えは変わってくる。酔いしれる者は悲嘆に暮れ、そして自暴自棄になる。立ち向かえる者は、勇気を振るい、ゼロからやり直す。つまり、前者になりやすい人程、普段は宗教や組織での集団行動をバカにしたり、自分の思い通りになる事が“当たり前”である様に振る舞う。それが“理不尽”に打ち破られ、しかも思い通りにならない事に腹を立てる様になると、自分の意見以外を排除しようとし、その結果、相手を見ずに切り捨てたり、たとえ親であろうと友人であろうと関係無く、問答無用で殴りつける様になる。そして最後は“自分は悪くない”の一点張りを貫く為に…って事になる。某俳優“モドキ”のTwitterでのボヤきもそうだが、結局は独り善がりで暴走してる事が原因で周囲に迷惑を掛けている事に気付かず、また、そういった事で自分の周囲に異変があると、その責任を自分ではなく他人に押し付ける訳である。そう、年齢は成人でも、中身がガキ以下である。
若手社員にアホ呼ばわりされると、上司…いや役員クラスの人なら誰しもリストラ要員にしたがるトコだろう。しかし、本当にエラい人は、そこで考える事ができる。そう、自分と相手との“世代格差”というヤツ。年相応になれば、それだけ分の知識や経験でモノは言えるが、逆を言えばそれって自分“だけ”の経験値であって、他者…特に自分よりも若い世代の実情を知ろうとなると、それこそ彼等にバカにされる事は当然とも言える。実例的な事を言えば、ニャオキが去年の忘年会でiPadを手に入れたんだが、そもそも60代前半のオッサンが、タブレット端末を欲しがるまではともかく、使いこなせるかと言えば微妙である。しかし、大阪支社のアカウント(@keiba_ana_west…てか、“中に人”は小塚にょんw)によると、手に入れて最初はともかく、現在は取材や調べ物の際に使いこなしてる…との事。コレはまだ序の口…というか、必要に駆られる様に自分を追い込んでるからそうなってるだけの話であり、そこで元々使い込んでる人と交流があれば、その時点で、その分野に関しての世代格差は縮まるのであり、それを他に転用できる器用さがあれば、先程の“部下にバカにされた社長”の意外な答えに気付くであろう。そう、その分野に関して自信があるならやってみろ…と、指示したのである。
更に言えば、ぶっちゃけ論だが、世代を超えて愛される人は、特有の固定概念を持っていないし、もっと言えば、どこの部族だろうが宗派の者であろうが関係無く、忌憚なき意見に耳を傾け、そこからアドバイスをやったり、フォローに回る事を約束する。逆を言えば、専門分野に関して近視眼的な状況に陥った者程、そういう交流や意見交換を極端に嫌う。一番わかりやすい話をすれば、“アンチ創価”…というか“アンチ池田大作”の価値観がそれw つまり、どんなに世界中から注目されるべき存在として賞賛されていても、そういう近視眼的価値観の人にすれば、全て“虚構”であり、邪な裏取引(金品授受やデータの詐称等)による虚偽の話となる。(ま、実際問題、その場に立ち合っていない以上、なんとでも言える話なんだが…)逆に、アンチ側の方が“真実”だとして彼等に対し、同等の行為をやったかという問いを掛けると、多分殆どの人がこう言うでしょう…“そんなのは必要ない、私が正しい”とw
そうであるならば、その“正義”を示す為の行動が必要になるのに、それを不問とした時点で、その“正義”に対し疑念を持った方がいい。もっと言えば、偉人に対して見下す事しかできない程度の“小さな存在”と見做す方が、却ってすっきりすると思う。ここがポイント。つまり、価値観は人各々ではあるが、そこんトコを理解せずに見下す権利は誰にも無い…という事。逆を言えば、本当に尊ばれる人は、故にどんな相手でも褒める事ができる価値があり、そこをキチンと“褒める”事ができるから、多くの人々に支持されるのである。
シーシェパードの“反日行動”もまた然りで、海洋民族である者なら、捕鯨は漁獲量を確保する為にやっている“害獣駆除”の一環であって、それを少しでも怠れば、鯨にとっても不幸(エサが減る&海岸線に打上って餓死等)である事を知っているが、残念ながらここの連中は、その殆どが“大陸・内地育ち”であり、海の生態系の保全という概念よりも、とにかく海洋民族は“野蛮”というレッテルを貼りたいだけである。もっと言えば、過去に日本人、あるいは日系企業に恨み事でもあったせいで、こういう嫌がらせを“日本だから”という理由のみで攻撃してると言える訳である。(バカですねぇ…乱獲をやっているのは、水産資源に関するルールを締結及び批准していない国々であって、海洋民族国家ばかりに責任を負わせても、結果的に海の環境がおかしくなるだけで、なんの解決にもならんのにw)
一方的な意見を述べて、相手の話を遮断するのであれば、それは単なる“我侭”であり、思い通りにならない事に対して腹を立てたり、相手を脅す行為は、レベル的に“乳幼児”以下である。そして、対立する者を排除するという事は、その時点で責任はそれを行った者自身に降り掛かるのであって、排除された側には、なんの責任も義務も発しない。もっと言えば、最悪の事態を招いたのは“自分”だと気付かない様な人は、結果としてその責任や義務、更には自分で背負わなくてはならない“使命”までも他人に擦り付けたまま、自分の情けなさに呆然とし、そしてそこから“破壊”へと突き進む事になる。これ、全く逆の事をやれてる人は、故に全ての“願い”が叶っていて、しかも不可能と思われた偉業までも達成してる事が多い。逆転の発想なんだが、どんな苦難も他人の悩みや苦しみに比べたら、自分自身が抱え持つモノなんてのは“小さい”と感じられる人程、実は他者を批判したり、妬む事をしない。なぜなら、自分もまた、他者から妬まれ見下された存在である事を“自覚”してるからである。その自覚が無い人程、他者を傷付ける事でしか自分の思いが伝わらないと勘違いしてるのである。全く逆、自分の方が相手から遠ざかって見下してるのに、それを指摘されてムカつくから、暴力を振るうんです。その結果が、“同じ気持ちの人間”であるがために精神的崩壊と共に“暴走”する訳であり、その虚しさ…否、自分の“無力さ”を否定する為に無差別殺人や“抗議自殺”という手段に出るのであり、そういう“無力感”に酔っているから、一過的でも“達成感”を求める訳である。そうなる前に、その行為を“止める”手段はいくらでもあった訳だし、実行した後でも、それを“教訓”として活かす事で、再発を未然に防ぐ事ができる。
特に自殺の場合、亡くなった者を“叱る”訳にはいかないし、直接関与してなくても、諸問題の“根幹”部分を見つめていくと、類似の事案が発生する前に引き止める事ができる。学校の統廃合に抗議して電車に飛び込み自殺した小学生の場合も、基本的に“大人の都合”でそうなった事を、子供だからとバカにして説明をしなかった事、そして、もしも統廃合を中止して現行維持を訴えたらな、その分の“負担”を自分達が請け負いなさいと言わなかった事が、この“悲劇”を招いたと言っていい。つまり、保護者である親も悪けりゃ、そういった“意見”を無視した大東市の行政も悪い。もっと言えば、自分達の都合で招いた結果に対し、連帯責任を負うのは、組織(行政区画)にいる以上、当然の話じゃないですか。(税金にしろ、社会保障にしろ、インフラ整備にしろ…)
無差別殺人の場合は、これとは全く真逆で、これこそ、暴力に屈しない、怯まない事こそ重要です。個人の為に連帯責任を負わされたくないなら、それ故の行動を示してこそ…むしろ、暴力を振るう相手に笑いながら言ってやりなさい。自分の恨みを晴らす、友達が欲しかったんだよね…って。(とはいえ、あくまでそれは、事件を起こす寸前で相手を諌める時の話ではあるが…)もしも、自分にとって友達と言える人、あるいは、近所付き合いがあった者が凶行に及んで逮捕され、裁きを受ける事になった時、見捨てるのではなく、最後まで“これは私達の罪…”として受け止め、その際の制裁は、甘んじて受けるべきです。いわゆる“差別”的な発言を相手がしたとしても、その挑発に乗るのではなく、笑ってやるんです。そうやって、君は遠退いたんですよね、我々から…と。

精神的な無力感は、一種の“達成感”にも似た“堕落”です。その寂しさに酔いしれ、そして“何もできない”という虚しさを満たす為に、ただ単純に、そして無償に力を誇示しようと、自分が持てる全てを満天下に示し、自分をバカにしたもの全てを平伏せるまで、過剰に暴れるんです。これは、本人が疲れ果てるまで止められない…否、完全に止める事はできない。しかし、それを未然に防ぐ事、また、途中で止める事は“可能”です。そう信じる者がいる限り…そしてその人が身代わりで“犠牲”になる限りは、完全に相手にトドメを刺す事だってできる。その為の“勇気”は、その瞬間に立ち合わない限り、発揮できるモノではない。だけど、宗教哲学の根底には、その“覚悟”と“勇気”が説かれている。それがわかる人には、無力感なんてのは始めから存在しない…否、あったとしても、真正面から立ち向かい、受け止め、そして自らの意志で脱します。そこんトコをバカにした人程、無力感の前で屈し、そしてだらけるんです。生きる気力も希望も、そして叶えたい夢までも見失い、ただ、その虚しさに酔いしれる事しかできないから…その“破壊力”に屈するから、全ての否定をするんです。自分自身の願いを捨て、そして他人の幸福までも破壊して得たい“解脱感”を…だから、無差別殺人を犯した者で自害するのは、罪の反省ではなく、大量の“生贄”を用意できた達成感なのです。まして死刑なんて、こういう人達には通用しません。だって死ぬ事…できれば自害する事が“最終目的”ですからね。終身刑…特に禁固刑はある意味そういう人には“苦痛”です。けど、それでは意味がない。本当に本人が“罪の意識”を自我に芽生えさせるには、何らかの“きっかけ”が必要です。もちろん、それこそ様々な方法がありますが…