迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

今一度、自分の襟を正そう…未来の為に。

なんか、一部の報道で、また韓国の一部の連中が、“反韓スピーチしてるから、東京オリンピックは開催すべきでない”という声を上げてる…と報じられてんだが、ならばなぜ、WBCの予選会場に韓国の球場が使われなかったか、今一度考えよう。そう、同じ“理屈”で切り捨てるなら、中国での北京オリンピックにしろ、南アフリカでのサッカーW杯にしろ、それは“やってはいけない会場”という事になる。当然だが、ソウルオリンピックとて、本来なら“開催すべきでないオリンピック”として、断罪されてもおかしくない話であり、国際試合の会場に相応しい土地なんぞ、地球上には“存在しない”という事になる。ちなみに、他の候補地であるイスタンブールにしろ、マドリードにしろ、東京同様に国際的に何らかの問題を抱えた土地である…ひとつはイスラム圏故の“宗教的ヘイトクライム”が潜在的にあり、もうひとつはEU圏故の財政・金融問題を抱えている事…スペインの政治も盤石とはいえないし、トルコも周辺国からのバッシングは毎度の事である。こういったことを考えると、東京…否、日本を非難してる韓国や中国は“他人の事言えた義理か?”という事に気付かぬ様では、いずれ国際社会から取り残される事になる。各々、自国の民が異民族を侮蔑するのは、潜在的心理的な“不浄感”から来る部分であり、そこを克服した者以外、国際社会では大恥を掻く事になる。それがわからない様では、やがてそれが原因で、自分の子孫末代まで肩身の狭い思いを、異国の地で受けなければならなくなる。

つまり、自分の事を世間から“認めてもらう”為に、何を犠牲にし、何を受け入れなければならないかを、自分自身が身を以て学び、後世に伝えなければいけないのであって、それをもって“歴史を学ぶ”事になるのです。言い方を変えれば、因果応報の哲理とは、自分自身の振る舞いひとつで決まる事…であり、自分自身が何気ない行為であっても、それがどう影響するかは、受け手次第であり、それが時として、自分が所属する組織の評価に繋がったり、自分が住まう地域の風土等にも影響する事になる訳です。そう、昨日の最後に呟いた“バタフライエフェクト”とは、経った一匹の蝶が何気なく羽ばたいた気流が、やがて世界中の気流を司る事になるという“事案”です。同じ様な事例を言えば、二枚貝の潮吹きも、ひとつひとつは弱い水流でも、数が纏まれば、大きな潮目となり、海流に化ける…とムツゴロウさんこと畑正憲は仮説を立ててます。(実際問題、アサリの潮吹きは、本来は生命活動としての呼吸や食事であるが、それによって水質と干潟の土壌改善の役に立つ事は、水産関係者ならよく知られる話。)
これと同じで、自分が吐いたヘイトスピーチや暴力行為は、やがて自分のみならず、自分の親族や子孫、出生地や現在地、更には同じ国籍の者達に対しての“悪しき評価”として跳ね返ってきます。それは、現時点では自分ではわからなくても、この“理不尽な仕打ち”は遠い将来、子孫から恨みを買う事になるでしょう。今の日本が中国や韓国から侮蔑されるのは、太平洋戦争前後に、当時の日本政府がやっちまった行為が原因であるなら、同じ事は、やがて中国や韓国も別のカタチをもって受ける事になる“通過儀礼”となるでしょう。そう、過去の恨み事を“理由”に脅し続けるのであれば、それ故に国際試合の会場候補を作っても、主催者として立候補しても、誰からも相手されなくなるだけでなく、国際ルールを遵守できない事を“理由”に排除されます。(どんなに才能あっても…)
もっとわかりやすく言えば、自分自身の過去の振る舞いが、やがて自分自身を苦しめる事になる…その事が理解できる人は、故に言葉遣いや行動ひとつに関しても、細心の注意を払っていきます。否定されても、黙々と社会奉仕活動する者が“正義”であるなら、それを民族や所属組織をもって侮蔑する人は、いったい何者なんでしょう?
立派な文言を立てる人よりも、まず、何気ない行動からどういう事に結びついてるかを観察する目と、自分がその“代行”をできるかどうかを考えるだけの想像力、実行力を問うべきではないでしょうか?相手を見下すのは簡単ですが、自分がその“立場”になった時にできるかどうか…そこに不安がある人は、決して相手をバカにしてはいけません。むしろ、自分がその“立場”となった時、自分がバカにした分だけの苦労を強いられるのは“当たり前”なのです。なんの苦労もなく、しかも誰とも関係ない状況で生きていける程、世界は広くないのです。どこかで誰かが苦労した分、自分自身がラク出来るのであって、自分だけで全てを成し遂げられるのであれば、自由であると同時に、自分の行動範囲が狭まります。そう、こんなに“広い世界”なんぞ、必要ないですからねw でも…それ故に、他者からの刺激もないですから、毎日が退屈で、しかも億劫になるでしょう。
ネットの世界でも、自分に都合の良い話“だけ”で纏めていけば、それはそれで幸福でしょう…でも、それ故に退屈ですし、本当の価値を分かち合う事もできなくなってきます。そこには自分“だけ”の感情はないですし、反発したくても、“自分の思い通り”にしか動かないから、本当に自分にとって“正しい事”という思考が停止し、他者を傷付ける事すら“正義”になってしまいます。今の世界は、本当の“正義”を掲げる人はいません…というより、何をもって“正義”とするか、その明確な基準が存在しない為、みんなが迷うのです。だから、結果として自分自身げ付けるべきけじめすら、自分自身で付けられなくなってきてるのです…過去の因縁話に縋るのも、与えられた利権を誇示するあまりに他者が迷惑を被っていても、それを自分自身で片付ける事すらできなくなってきてるのは、いろんな意味で“他力本願”がまかり通った“結果”です。自分の問題としてこういった事を、自分“一人”で立ち向かう事は、非常に勇気と覚悟がいる事です。でも…それを何も言わずに支えてくれている人達がいる…そう確信できる人は、故に動けるのです。自分と、自分に繋がる無数の“可能性”を守り抜く為に…それを一切捨てろと他人に言ったなら、その発言をもって、自分の“可能性”をも自らの意志で捨てるべきでしょう。さて…どれだけの人が、自分自身がもってる偏見と独断による差別行為に終止符を打てるのやら…