迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

自称“文化人”程、戦争を好む?

軍事パレードの映像が流れると、いわゆる平和主義者と称する人程、反射神経的に“戦争反対”を叫ぶ。ま、原発建設や事故の度に“核廃絶”を叫ぶ心理と一緒で、そもそもの軍隊の役割がわかっていない事や、エネルギー政策の根幹をまったく理解できていないからこそ、あらぬ方向へ力を注いでしまう訳である。もちろん、本当に平和を願ってる人は多い訳だし、原発だって、自然環境に影響が出ない、次世代エネルギーが、既存よりも安定、且つ、高出力なら、それに越したことはないが、現実を考えた時、その“平和”はどういうカラクリによって成り立っているのか、真の意味での“省エネ”とはどういう事か…そういった論議無しで訴える事程、実は短絡的な解決法を好みやすい。つまり、“底辺”であるが故に単純な方法での解決策を希望する訳であり、思慮深い者は、そこで立ち止まって、どうするべきかを思案する。逆を言えば、時間的な余裕がある人程、自分と他者との関係性を考え、そこから消去法で問題をひとつずつ片付けるのだが、そういった余裕も知性もない人は、とりあえず自分自身の保身に走りやすい。

これが何を意味するかといえば、文学や芸術に没頭する人で、いわゆる情報通を気取っている人程、自分自身の価値観を、消費者や関係各位に“押し売り”する訳である。で、それを嫌う人達を勝手に“敵対勢力”と見做し、あらゆる手段で消そうとする訳である。ここで気付いて欲しいのだが、こういう事をやってる人達も、一応“本職”は文芸に携わる端くれであるって事…そう、本物の文豪や学者、芸能人の殆どは、いろんな分野の人達との関わりを持っていて、その関係性を大事にするから、たとえファンと称する不届き者がいたとしても、それ相応の対応を心得ているモノである。もちろん、パパラッチの様な“ペンの暴力”を振るう相手をも利用して、自分の地位を確固たるトコまで向上させる事もできて、一人前の著名人と言えるであろう。しかし、それ故に“本当の意味”での人付き合いがヘタレともいえる訳で、自分と、その周囲に関係無いと思われる事で、後々自分にも悪い影響が出ると思った途端、例え相手が親友や恩師であったとしても、侮辱行為を繰り返す事になる。本来なら、そこを質して導くのも自分自身の“役目”である事に気付かずに…
だから、そういう“穿った正義”を掲げる人程、実は自分自身が“悪”に落ちている事に気付かないし、他者から見て“変態呼ばわり”されて当然な態度なのに、それを批判した人を勝手に“悪”と決めつけてるからタチが悪い。もっと言えば、自分自身の立場が“ガキのまま”になってる事に気付いていないのが痛々しい訳である…そう、子供染みた事をやってると、自分より年齢や地位、学歴が低い者に指摘されると、ムキになって批判する訳である。まったく、大人気ないったらありゃしないw
そもそも、軍隊…特に自衛隊はなんの為に存在するのかと言えば、ひとつは“国防”であり、もうひとつは“有事の備え”である。一見すると同じ様に聞こえるが、役割そのものはまったく別次元の話である。“国防”というのは狭い範囲の意味でいえば、領土・了解・領空を他国から侵略される事を阻止し、万が一戦闘が起きた場合、一人でも多くの国民が受ける被害を最小限にする為に、最前線で命を賭して戦う軍事力を指すが、広義では、海外で紛争に巻き込まれた邦人を救出する事や、海賊行為が繰り返される海域での護衛もその範疇に当てはまる。そう、国家としての対外的な治権を確保する事が“国防”の肝心である。しかし“有事”は、この“国防”では含まれない部分…特に自然災害発生時の救援活動や被災地での生活インフラの仮復旧等の“国内での事案”も加わる訳である。そう、この“被災地”には日本のみならず、海外のあらゆる地域での活動を指す訳であり、そこには当然、国連からの要請で派遣されるケースも含まれる訳である。(いわゆるPKO活動)普通に考えれば、インフラ整備や救助活動なんかは、警察や消防、ガスや電気の配給元、各被災自治体が単独でやれば済む様に思われがちだが、どっかの市民団体が、そういった防災費や有事の備えを“無駄な経費”と見做して騒いだ挙げ句、そこをカットしたモンだから、余力がない訳である。ここがポイント。もっと言えば、たとえ備えがあったからと言っても、すぐさま使える状況ではないし、まして担当部局の責任者が、諸般の事情…というよりも、真っ先に“犠牲”になった場合、どうする事もできない。(東日本大震災の時でも、防災拠点でもあった役場自身が津波に流され…ってのがあったのを、忘れないでもらいたい。)そうなると、災害救助、および援護の指揮系統は最終的に国に移管する事になる訳で、この時に自衛隊が動く事になる。これは阪神淡路大震災の時の教訓(当時の貝原兵庫県知事の判断で、自衛隊へ災害救助の要請を出した)から、法整備を行ったおかげでそうなってる訳であり、もしも、そういった事が神戸で起こっていなかったら、“厄介な隣国”が攻撃するまで、誰一人として自衛隊に対して憲法を理由に抗議する連中の一部が暴徒化して、それこそ国の内外で紛争が頻発してたと思う。(ま、それ以前の話として、半世紀も前に学生運動という名の紛争が日本中の著名な大学で頻発してた訳だが…で、その一部が“革マル派”だとか“日本赤軍”だとか名乗って、散々暴れた訳でw)
ここまで言えば判るだろうが、それでも理解できないのであれば、一言でいうと、自分自身がやってる事は、過去の歴史上、どこかで誰かがやった事と“同じ行為”をやってる事に気付かないと、自分自身がバカを見るよ…と、日蓮が“立正安国論”で指摘してる訳である。実は“立正安国論”も、よくよく読めば、歴史をキチンと精査し、正しい認識の下で対応策を行う様に論じてる訳であり、更に深い意味を言えば、歴史は必ず繰り返される事、そしてそれらを回避するには、今までの振る舞いを糺し、でき得る限りの手を尽くす事、そして、なによりも“相手を信じる”事を説いている。故に、自分達の思い通りにならない事を“他人のせい”にしてる様な著名人なんぞ、結局は“戦前の熱気”が羨ましい“愚か者”である…と、オイラは切り捨てる。世間的に“良い作品”と言われても、自分の意のままにならない事を憎む様な疾しい根性がある限り、本屋で立ち読みする価値もないし、劇場へ足を運ぶ事も、ネットでの有料配信も利用しない。それがわからん文学者や芸能人は、その自惚れた自身の態度で、いずれ身を滅ぼす事になる…と思う。