迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

正義感・使命感が生んだ“悲劇”

山口・周南市限界集落で起きた事件。あまりにも悲しい話じゃないですか…容疑者自身は、両親を、そして故郷を思って都会生活を捨てて戻って来たのに、それを周囲が変態呼ばわりって。ある意味、これが限界集落がいつまで経っても“限界集落”のままで終わってしまってる部分であり、行政だけの努力では、防ぎ様のない事件なのです。つまり、既存コミュニティーに依存するあまりに、外部から来た者、あるいは出戻りの者に対して村八分…これはあまりにも酷い話です。

もちろん、容疑者自身も集落の付き合いに対して、積極的にやってないなら話は別ですが、報道で流れている部分だけで判断すると、むしろ、集落の住民自身が“高齢者”である事を理由に、殆どの仕事を押し付けていた…というのであれば、これは完全に高齢者故の“甘え”です。言い方を変えると、自分より若い世代の者が集落を離れた最大の原因は、自分達自身の堕落だという事に気付かないから、最年少だった容疑者は、心身共に追い詰められてしまって、こんな凶行に及んだという事です。これも、ある意味小泉改革下で市町村合併を急いだ結果だといえばそこまででしょうが、問題は、そうやっていつまでも“他人のせい”にして、自分達の問題を自らの手で解決させようとしない事です。
子供じゃないのだから…といっても、今の70代以上でも、殆どが昭和の生まれです。まして、戦争経験者が、中国や韓国の態度に業を煮やしてて戦争すべきだと声高に叫ぶ程ですw そこには、あまりにも平和過ぎて、自分の我侭がそのまんま反映され過ぎた事による弊害が起きている事に、誰一人として気付いていないのです。これは、教育の問題であり、そして想像力の欠落による、共助のあり方を学ばなかった事による弊害です。おせっかいだと思って手を引いたのに、それを“手伝え”とか言われたら、あるいは、気を遣って手伝いに入っても“邪魔だ退け!!”って言われたら、相手がどう思うか…そこんトコを弁えずに、一方的に叩けば、当然、相手も気分を害します。断るにしても、助けを求めるにしても、相手の立場に立った上で、少し引いた言い方をするだけでも、先方も理解できる事なのに、頭ごなしであれやれこれやれ…と言われ続ければ、却って“何のためにやってんだ?”って事になります。
相手をバカにするのは大いに結構、しかし、バカにしたのであれば、自分の身に起きた問題は、自分一人で解決させてこそ意味があります。バカにした上で頼るのであれば、それによって後ろから鋭利な物で刺されても、文句を言える立場じゃないです。頼ってる以上は、時には付合ってやる事、手伝ってやる事も“等価交換”の原則に立って考えれば、当たり前の話です。それを“自分より若いから”とか、“自分より資産があるのだから”とか言って集っている様では、これと同じ事件が、どこの集落で発生してもおかしくありません。当然ですが、富裕層や大企業が、海外の口座へ資金を隠したり、一族郎党で逃げるのも、原理としては、これとまったく同じです。(それを教義で諌めたのがイスラム教であり、故にイスラム教徒の富豪や貴族は、その教義に則って、民衆の税負担を軽減させたり、自分が得た利益を民に還元するのです。)
自分の我侭によって、自分の生活が苦しくなっている自覚が無い人程、実は他人に迷惑を掛けている自覚もないから、平気で悪口を言えるのです。そしてそれが、自分に対する憂さの捌け口になってしまってるのです。本来、宗教の役割のひとつに、そういう不平不満をぶつける場としての集会や講義が開催される訳であり、そこにはバカみたいに祈願・祈祷するという行動があります。これも結局は、ロックバンド好きでギターやベース、ドラムを大音量で鳴らす事や、クルマ好きで悪路を走ったり爆音立てながら速度超過を自慢する…等と一緒で、非現実的な状況に自分を置く事で、自分自身を取り戻そうとしたまでの話です。そしてそれを理解できないままでいるから、段々と心理的な“見えない壁”が構築されてしまうのです。大事なのは、こんなバカでも“自分達の一員”として受け入れ、時には叱り、そして慰めてやる事なのです。不平不満の一番の原因は、相手ではなく、自分自身だと気付く事。それを踏まえずに叩いてると、最後は自分自身が余計に苦しむ事になります。心の闇を晴らすには、寄り添う事…何気ない事かもしれませんが、どんな結果になったとしても“アンタを信じてる”という思いが相手に伝わると、それだけで幸せになれるのです。それに気付かないでいるから、些細な事でも大惨事を招く引き金になるのです。

教訓:正義感の強い者に頼る以上、その我侭に付合ってやる事も大事。あれこれと要望を出すのであれば、様々な支援を怠ってはいけない…その怠慢が、“正義”を“邪悪”に変える。