迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

表現の自由とファシズムの話。

島根県松江市の図書館で、“はだしのゲン”が閉架(閲覧制限)となったニュース、いろんな憶測が出ているが、重要なのは、マンガの描写がどうこうという“個人的な理由”だけでなっている点で述べるなら、それはおかしな話。言い方を変えれば、原作者が存命であるなら、内容の再考等もできるんだが、そういう訳にいかない状況では、無理な話。ま、あのマンガ自身は、前半の4巻まで…つまり、原爆投下前後の話に関しては戦争の悲惨さを描いてるが、5巻以降の内容が、完全に反米感情天皇批判が強過ぎるから叩かれる訳で…

同じ理由で、今、ジブリアニメの最新作“風立ちぬ”にも批判が出ているとの事…ま、喫煙シーンが多過ぎるが故の話だから、“はだしのゲン”に比べればカワイイもんだが、批判の方向性としては、実は共通している。そう、話の内容で必要な描写であるにも拘らず、単に“子供が見てるから”とか“健康上に悪いから”等を理由にして、表現の規制を掛けようとしている事である。つまり、グロやエロ、喫煙や薬物依存、反社会的行動に関する表現に対し、必要以上に規制をする事で、青少年の思考の正常化を図ろうという考えだが、それって違うんじゃね?
正直な話、経験談なんて、所詮は“他人事”です。自分自身が経験し、学んだ知識は、他人に対して、どんなに丁寧に説明しても、完全に把握する事なんて不可能です。それは、“想像力の欠如”が全てであり、そこに表現された事に対する意図を、どう解釈するかは、受け手の想像力次第です。つまり、マンガの読者が描かれた世界観を“現実”と捉えるか、“空想”として受け流すかは、作者ではなく、読者の感覚に委ねられた部分です。そこんトコを履違えて、表現の規制を掛けること自体、正直、ナンセンスな話です。
当然ですが、マンガや小説の作者も、読者(エンドユーザー)の立場で物語を作ってるとは限りません。そこんトコは、自分自身で中二病(思春期の妄想癖)になって想像すればわかる事。それが、ひとつの物語として成立してるならばともかく、そうじゃない想像は、どこまでいっても“空想”であって、現実に起こりえない話。それ故に面白いのであって、また傷付いたり、死んでいるのは、その物語上の存在であって、現実の話でない以上、どういう風に展開されても、最後はひとつの結論へと向かうモノです。それが大団円であろうが、悲劇のままであろうが関係無く…
ファシズムの根底にあるのは、他者を排除した“完璧な世界”です。でも、完璧な世界とは、どこにも存在しません。なぜなら、それこそが“完全体”だからです。つまり、“自分”と“他人”がまったく一緒の状態ってのは、結構気持ち悪いモノで、故に、何らかの“違い”を見出そうと、あれこれやっていく訳です。逆に言えば、まったく同じならば争う必要がない反面、自分そのものが存在する意味もありませんから、どこでサボろうが、手を抜こうが関係ないのです。そう、共産主義に傾倒する人の概念には、こういう“堕落主義”が見え隠れします。民主主義であるなら、どんな人にも役割と、それ故の連携が求められます。しかし、不況で職探しに没頭し過ぎたり、手元の資産を見て、それを守る事に必死になり過ぎる人には、その“連携”や“役割分担”を無視する様になります。そう、昨今の政治不安の一因は、実は自分自身に与えられた“課題”に集中し過ぎて、他者との関係性を省みなかった事による弊害なのです。そうなってくると、思考回路の停止…つまり、想像力を行使する事をやめる様になり、自分だけでは捌き切れない情報に、右往左往する様になってくるのです。こうなってくると、判断基準が“自分の都合”のみになり、その結果、他人に迷惑をかけている事すらわからなくなるのです。福知山の事故にしても、冷静に考えれば、エンジン式発電機が稼働中にガソリンを継ぎ足すなんて、危険極まりない事だと気付くモノなのに、そういう常識が欠如していた結果、犠牲者が出てる訳ですから、これを“他人事”として聞き流すバカが一人でもいると、同じ事故は、どこでも起き得る事になります。(今回の事故で犠牲になった方には、お悔やみ申し上げます…)ついでにガソリンの知識をひとつ…フルサービス式のガソリンスタンドの制服は、静電気防止の素材で作られていて、当然ですが、職務中のタバコは厳禁。更に、常に水を撒くのは、静電気発生を抑制するのと、作業場の清掃ですw セルフ式でも、給油機に静電気除去パッドがついているのは、利用客の静電気を取り除かないと、気化したガソリンに引火するからです。(ちなみに、昔は鋼鉄でできてた車体に振れる事で、静電気が勝手に抜けたんですが…)
閑話休題。つまり、規制を掛けたとしても、その“理由”がわかっていないと、何の意味も成さないし、却って危険度が増えるだけです。もっと言えば、日本のエネルギー事情を考えれば、電気を多用する背景に、化石燃料が大量に使えなかった事が全てです。だから、電気に頼った結果、原発が必要となった…という説明が成り立つ訳ですが、それ以前として、水力発電に必要な流水量を確保する為のダム建設に、多くの山村が反対した事や、化石燃料による火力発電所の増備によって、その廃熱が海水温度を上昇させた事に、誰も気付いていないのですから滑稽です。(ま、現行の原発でも、熱交換の関係で海水を使ってるから、火力発電を叩くのはナンセンスですが…w)つまり、原発云々以前として、日本の産業が、大気汚染や水質汚濁の観点から、集塵装置付きの煙突や、廃水浄化施設を設ける事が、最低条件だった事を踏まえた上で、大企業のみならず、町工場レベルの産業までもが海外へ工場を作るのか、ちょっと考えればわかる事です。もっと言えば、そういう整備費用に関する助成の為に国庫(税金)を投入するなら話はわかるけど、そういう部分を無視した上で、企業に多額の税金を払わせている訳ですから、海外に逃げられて当然です。消費税でもそうですが、そうやって富裕層が資産を守る為に立ち去った以上は、その負担が貧困層に降り掛かるのは“当たり前”の話なのです。なぜなら、この国の民ですからねw それを逆手に“外国人だから”と言ってる輩が、未だに過去を持ち出して集ってる訳ですから、国民が外国人に不信感を抱くのも当然であり、それ故の“排除運動”が起こるのも当然の報いです。でも、それこそが“ファシズム”の正体なのです。自分と“同じじゃない”からこそ、異なる他者を徹底的に排除して自分の“思い通りの世界”を構築しようとして、支離滅裂になるのです。
真の意味での“民主主義”とは、実は究極の“共産主義”であり、理論上の“共産主義”や“民主主義”とは、まったくの別モノです。重要なのは、自分が気に喰わない事であったとしても、それを用いるかどうかは、利用者の気分次第です。そこんトコを踏まえた上で、どうするかは、自分次第である以上、その責任も自分が請け負って、初めて物事を決定する事ができるのです。単に批判するだけでなく、自分ならどうするかを提示する事、あるいは、それによってどんな影響が出るかをわかった上で行動を起こす事が全てなのです。予測不可能な事だとしても、それを批判するのであれば、自分自身も最低限度の非常時に対する備えを、常にやっておく事…単なる罵倒は、嫉妬であり、批判ではなく相手をバカにする事で、自分の憂さを発散してるだけです。有能で万能なモノなんて存在しないのであれば、バカにされても、自分にできる最大限の行動に徹する事です。それを嫌った結果、ファシズムという歪みを生み出し、国家の存亡に至るのです。