迷馬の隠れ家 はてな本館

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何故、天皇が憲法で政治に参加してはならないと記載されたか?

昨日の園遊会で、あの“放射脳バカ議員”が天皇に対して、直訴とも取れる手紙を渡した件について、色々と賛否両論な話が飛び交ってますが、日本国憲法をキチンと理解できている人なら、これが如何なる行為なのか、すぐにわかるかと思う。そう、これは、日本国憲法に定められた、天皇及び皇族が、直接国家運営に関与してはならない事が記載されているにも関わらず、立法府の者が議会の了承等を経ずにやった時点で、既に国民の権限(国民主権)を踏み躙る行為であると同時に、内閣や司法を無視した越権行為である。つまり、被災者の感情を逆撫でしただけでなく、多くの子ども達をバカにした、とんでもなく無礼な振る舞いである。逆に言えば、こんなバカでも国政議会の議員になれる程、日本国憲法の文言は“形骸化した”と言わざる得ない。

では何故、日本国憲法では、天皇の権限が大幅に制限されているのか?その理屈は、日本国憲法の“ベース”となっている大日本帝国憲法そのものを理解しておく必要がある。オイラは、短大時代に日本史を専攻してた関係で、近代・現代史に関する講義の一環として、六法全書…特に刑法と民法、そして基盤となる“ふたつの憲法”を齧った経験がある。こんなのは、よっぽどでないと読む機会がないだろうと思うが、最低でも、日本国憲法の記載と、大日本帝国憲法の記載の比較ぐらいは、中学の社会科…特に公民の時間にやってる範疇である。ま、そもそも社会科そのものが嫌いになる最大のきっかけが、この公民での“社会的ルールと法律・規制”のトコで、頭ん中がいっぱいいっぱいになるってトコだろうし、日本国憲法を学ぶ時でも、大概は第九条(戦争放棄に関する記載)ばかり注目されて、弁護士や政治家等を目指してない人で全文を熟読した人は、正直変態であるw しかし…本来はここを熟読した上で法律を学ぶのがスジであって、労基法違反する企業があとを絶たない理由も、実は“そこいらへんの話”と言える訳である。ぶっちゃけ論だが、現在の労基法にしろ、少年法にしろ、旧来の大日本帝国憲法時代からある刑法と民法が基本であって、その影響で罰金の額や刑罰のレベルが時代に合っていないのは、いろんな意味で法律そのものが形骸化している証左である。言い方を変えれば、法律そのモノを見直すにしても、その基盤となる憲法そのものが、まるで腫れ物を触る様な感覚で立法府が扱ってるから、どんな法律も、その殆どが形骸化する訳であって、更にその法律で対処できない懸案を新たな法律を作ってやってるモンだから、規制上ダダ被りな部分があっても、それがどこと連動してるかを確認してない…だから、刑法において公営ギャンブルも“犯罪”として裁かれるべきを、様々な“アンチ法”によって抜けてる訳であり、そこの隙間を突いて、違法なギャンブルが“レジャー産業”としてまかり通ってしまってる訳である。(と言っても、公営ギャンブルを全廃したからと言って、財政が立て治る訳もないし、却って、闇カジノ等が横行するだけで、意味がない。)
では、日本国憲法で皇族の活動制限が定められている背景には、何故か?それは大日本帝国憲法が昭和初期に“形骸化”した事が全てである。大日本帝国憲法による規定では、天皇陛下の所在は、この国の“最高責任者”であり、最終的な政治の決定権を有している事が胆である…しかし、戦時下において昭和天皇は、ポツダム宣言の受け入れと、それに伴う武装解除以外、何ひとつその決定権を行使していない。では、誰が太平洋戦争にGOサインを出したか?それを出したのは、いうまでもなく軍事政権…つまり、東条英機の判断である。この事に着目したアメリカを中心としたGHQは、大日本帝国憲法が完全な形骸化をしてる上に、皇族による支配からの開放…と言っても、これは王権政治に異様なまでのアレルギーを発してたアメリカやフランスの意見であって、イギリスはむしろ、正しい立憲君主制に戻れば、もっと日本が世界でもトップクラスの国として復興するだろうという思惑があったからこそ、日本国憲法を制定するにあたって、天皇を含めた皇族の直接的な政治への関与を認めない代わりに、日本での“王侯貴族”の存在を残した…という訳である。
つまり、大日本帝国憲法の“欠点”である、天皇が全ての責任を負わされる仕組みを取っ払ったのが日本国憲法の“基本的な考え”であって、そもそもが、完全民主化する上での憲法ではないって事に気付いてもらいたい。言い方を変えれば、憲法の記載上、第九条と天皇に関する取扱以外の部分では、大日本帝国憲法の案件が、ほぼそのまま取り残された状態だって事である。故に、民法と刑法、更に商法等の基本的な法律は、ほぼ、大日本帝国憲法時代から、イジってないのである。特に、刑法に関する罰金や刑罰の内容が、犯罪の質の割に“軽微”だったりする背景には、その当時の金銭レートがそのまま反映されている為と言える訳であり、ここの部分をキチンと理解できてる人であれば、なんでブラック企業のやってる行為が社会的に批判されてるにも拘らず、その経営者幹部がヘラヘラできるのかってのも理解できよう。これと一緒で、70年近くもの間、誰一人として、天皇の“政治的な所在”をキチンと学んでこなかった事が、こういう騒動の原因になってしまう訳である。もっと言えば、天皇が日本の政府に対して本来なら、臨時国会通常国会での召集時に、わざわざ開会宣言の為だけに議事堂へ行くのは、ある意味“日本国”としての儀式…議会でのしきたりであって、完全な民主主義国家であるなら、呼ぶ必要のない話である。
しかし…議会でギャーギャー騒ぐだけで、国民との対話を何ひとつできない国政議員や官僚に代わって、直接民の声を聞き励ますだけの皇族を尊ぶ事がバカバカしいのであれば、憲法改正時に、皇族の存在を抹殺するのがスジであるのに残しているのは、他の立憲君主制を行っている国同様に、最悪の事態…国家転覆に繋がる様な有事の際に、その立て直しの“旗頭”としての価値があるからこそである。言ってみれば、今でも天皇は、国民の正義を示す“錦の御旗”である以上、それを個人レベルで振りかざす事は、皇族に対しても、そして国民に対しても無礼千万である訳であり、帝国議会時代であっても、天皇への直訴は、本来であればその場で斬首されても文句を言えない“重罪”である。だが、歴史を鑑みると、それをやった国会議員がいる訳で、それがいわゆる“足尾銅山鉱毒被害”を訴えた事である。コレを、あのバカは真似たのであろう。だとすれば、時代背景を勘違いしてるだけでなく、実情を訴えるパフォーマンスに使われた、田中正造をバカにしてる。敢えて言っておくが、かの代議士は、地元出身の富豪であり、地元の窮地を全国に訴える為にやったのであって、東京の片隅で、情報に振り回されてやった訳ではない…これが、一番の違い。福島の惨状を訴えていいのは、実際に被災した地元の民として立候補した被災者であるべきで、俳優紛いが代弁する様な話ではない。ぶっちゃけ、被災地の人等でも“お前何様だよ!!”と言ってる時点で、気付くべきだ…被災地を思うのであれば、“己の正義”を振りかざしてはならない。もっと言えば、“真の正義”とは、単に権限を振るう事ではなく、最前線にいる者を守る為に、自らを犠牲にできる度胸を見せる事である。その為の道として、被災地に入って生活する事もひとつであり、そこで意見を聞く事こそ、本当は政治家の“仕事”である。それをやらずに表面上の話だけで騒ぐバカは、議員バッジの重さを軽んじた不届き者である。