迷馬の隠れ家 はてな本館

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親日派が考える、それぞれの事情とは?

反日・抗日の話ばっかやってると、気が狂いそうになるし、しかも相手を気の毒にしか思えない。しかし、同じ事は、親日派と称する諸外国の“本音”の部分でも言える訳であって、そこんトコを踏まえた上で考えていくと、本当の意味で国際交流における肝心は、好き・嫌いといった感情論だけでは物語ってはいけないって事になる。もっと言えば、友好国であっても、その内情は様々であって、本音を言えば…という事なんて、それこそ、食品の産地偽装以上に複雑且つ厄介な話であり、そこんトコを理解せずに批判したり賞賛する事は、却って自分自身がバカを見る。それがわかる様になるには、ともかく、世間一般に流れる情報に惑わされるのではなく、どういう事情があって日本に寄り添っているのかを、自分自身でも深く考える事が重要となる。

例えばアメリカの親日派と言われる人達は、重要なポイントとして、戦争のせいで“被爆国”というレッテルを貼ってしまった責任と、天皇という絶対的な精神の拠り所を、国民全員が共有できるという不思議さが、一番の根幹にある。つまり、絶対的な王様の存在に対する憧れと、戦後復興の名の下に、アメリカの“植民地”としての政策が旨く軌道に乗せる事ができた唯一の国だからこそである。当然、真珠湾攻撃の恨みや、白人国家…というよりもキリスト教徒国家であれば誰しもが憎む最大の理由が、ロシア海軍日本海海戦において、異教徒の国家に負けたという事が屈辱的だった事が根底にある以上、日本人に対する見方が他のアジア各国と区別して侮蔑したいトコがあるって事を忘れてはならない。ただ…最終的に親日になるか抗日になるかの基準は、案外ユダヤ人次第なトコもあり、そこんトコは、欧州諸国でも事情として共通してる部分だ。とはいえ、ユダヤ人に振り回されるのは、欧米諸国共通の問題である反面、そういったややこしい問題に対して、中立でいられるのが日本人だという感覚もある訳で…
トルコの場合、もっと深い部分での話をすべきで、それは、ふたつの軍事的な話がそうさせていると言っていいだろう。いわゆる“エルトゥールル号座礁事故”と、さっきも出て来た日本海海戦を含めた日露戦争の戦果である。和歌山の人々とトルコ人が友好関係にあるのは、エルトゥールル号が、悪天候熊野灘座礁し、多くのトルコ海軍の犠牲者を出した事にある。この際に救助に当たったのは、当然地元串本の漁師達であり、もしも紀伊半島の突端に彼らが住んでいなかったら、少数と言えど生存者がトルコへ帰国する事もできなかっただろうし、それどころか、トルコの歴史上でも、忘れ去られた話となる…なんせ、海軍の軍艦が戦争以外で沈没するなんて、国の恥以外何モノでもないからだ。そして、日露戦争での戦績を考えると、これはロシア帝国の度重なる侵攻に悩まされていた国々にとって、まさに“救世主”なのである。そしてそれは、中東の多くの国々にとって、親日派が多い最大の理由にもなる…そう、アメリカのトコでも解説した様に、キリスト教を国教、あるいは主要宗教に据えている国々の横暴に腹を据えかねていたイスラム圏の人々にとって、日本のやった事は、まさに“聖戦”であり、そのキリスト教徒を恐怖させた事にこそ全ての価値がある。ここでも、日本人が“日本人”であるが故に好かれる要因がある。
東南アジア…特にベトナムやマレーシア、インドネシア親日派である理由は、無茶苦茶簡単な話で、欧米諸国による植民地支配からの開放であり、また、それに伴うインフラ整備を、太平洋戦争が激しくなる最中でもやってくれた事に全てがある。逆にフィリピンが抗日を掲げる理由は、経済を支えてきた基盤が、米軍の軍需産業であり、米軍駐留は、どんな国策よりも経済的発展には不可欠だった…つまり外貨を稼ぐ手段として、アメリカの植民地である事を甘んじてきた事が全てであって、それを破壊した日本は許せない敵だという事になる…これは、植民地支配の経験がある国々に共通する概念なんだが、現在の国際的な経済情勢を考えると、植民地化してた時に、民族間の意思疎通のツールとして、英語やフランス語を用いてた事により、独立後も公用語の一部として使っているからこそ、英語圏、あるいはフランス語やドイツ語等が通用する国々相手に交渉する時にスムーズに事が運ぶ訳であり、同じ理屈で言えば、台湾の一部や南太平洋の島々で日本語が通じるのも、実はそういう歴史があってこそなのである。
こうやって考えていくと、反日・抗日を掲げる人々がやりたい事も、自然と見えてくるモノであり、結局それは、いろんな意味での“憧れ”と“願望”が歪めた精神だと言い切れる訳である。だから、好き勝手にギャーギャー騒いだトコで、本当のトコを突かれると、ボロがでるのも当然であり、親日国家といえど、国民全員がそうかと言えば、違ってたりするのも当然の話である。カッパドギアで日本人女子大生が強盗殺人に巻き込まれた件についても、容疑者が最初から相手が日本人だとわかって狙ってやったのであれば、そこには容疑者だけが抱える抗日感情があったと言える訳であり、逆に場当たり的な犯行であれば、とにかく“日本人=金持ち”という概念のみでの犯行と言える訳である。(実際には、もっとややこしい話があある様なんだが…)10数年前にあったハロウィンでの惨劇(日本人留学生が近所の住人に射殺された事件)も、事の発端を考えれば、相手がどういう人物で、しかもハロウィンがどういうイベントなのかを察すれば、これもまた、いろんな要素が含まれた悲劇と言えよう。で、その度にアメリカでの銃規制を訴える動きがあるんだが、一向に拳銃を捨てられない背景には、拳銃によって自分自身が守られてきたという既成事実がある…ここを理解した上で全米ライフル協会がモノを言ってる訳だから、そこんトコをキチンと区別した上で付合わなければならない訳である。
故に、真の意味でのグローバリズムを考えるにあたって、一番正しい事は、全ては日本に憧れるからこそ…という概念を、日本人自身が意識する事にある。単一民族だからとか、島国だからではない…様々な事情を抱える国々にとって、その多様性を寛容してきたお国柄である事が、諸外国の“憧れ”と“僻み”の対象になってるだけであって、他の国々とて、やろうと思えればできる事である。それが“できない”からこそ、余計にそう思える訳である…とはいえ、日本人といえど、出身都道府県別の感情があり、また地域別の感情があって、“単一民族”と言われる割には、その感情は一枚岩ではないのだが。