迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

言葉は世代を超えて…

昨日の“新アナライズド”で、雷犬が『全てはお客様にとってどうか…その1点を考えて仕事せよ。』と番組の終盤で語ってたが、この言葉自体は、おそらく、菫華の君が生前、雷犬やふなっちら後輩に対して、徹底的に叩き込んだ“言葉”を引用したモノと考えられる…と、言うのも、彼自身も、大阪支社“修業”時代に、ニャオキか守タソにトコトン言われたであろう言葉であり、その先には、生田博巳アナや吉田仙人の“生き様”を、どういう風に後世に伝え、残していこうかという思いがある。もっと言えば、偉大なる先人達の“言葉”は、時を経ても、様々な場面で語り継がれる事を意味する訳であり、最初にその言葉の“重み”を実感した者だけが、初めて正しくその“本意”を悟る事ができる。そしてそれは、様々な分野の人々に、それこそ千差万別なカタチで広まり、語り継がれていくのである。
競馬実況アナに限らず、基本は、“相手にとってどうあるべきか”という姿勢が、一番重要であって、自分の体裁や都合なんぞ、相手にとっちゃ“関係無い”話である。これ、実は世界情勢でも同じであって、“誰の為の世界平和”なのかを、為政者達は誰一人として、語ろうとはしない。これでは、何の意味も成さない。敵対する相手とされる人達も、それそれの幸福の為に行動を起こしてる点では、非を責める事はできない。が、問題は、それが“何のため”という部分で、大概の人が間違えるから叩かれるのであって、ぶっちゃけ論で言えば、いわゆるテロ組織に属する極論派は、往々にしてその基本思想そのものが“幼い”から、どうしても対話のテーブルに着くよりも、武装して暴れて相手を抹殺する方を選ぶ。共産主義を掲げてデモを繰り広げる市民団体も、大概はそこんトコで引っ掛かる訳で、自分達の立場そのものが、既に“次世代”へバトンを渡すべきなのに、そこを誇示したいあまりに、否、いつまでも“主人公”のままでいたいあまりに、本来あるべき行動基盤が歪み、いつの間にか思想の“暗黒面”に堕ちる訳である。どんな思想にも、一見すると素晴らしく感じる事が多々ある訳だが、それを裏返してみると、結局は一部の人々を見下し、あるいは才能や技術をバカにし、更には社会的地位によって自分の価値観を勝手に決めつける。つまり、どんな思想や概念を持って政治を行ったとしても、必ずそれ故の“弊害”は出てくる訳であって、社会保障を充実させれば、バカみたいな課税が庶民に、あるいは企業・団体に降り掛かってくる。当然ながら、公共インフラを整備すれば、その建設費や維持費に過剰なまでのコストが掛かるし、逆に、税金を取らないでそれらをやろうとすれば、当然ながら富裕層同士の利権争いが起こってくるのは目に見える訳であり、企業がやるとなると、当然図書館だろうがなんだろうが、施設利用料という名の取引が行われる事になる。ほれ、ネットの世界でも有料動画サイトがある様に、どんな公共サービスも、一般利用をしたくても“貧困層お断り”な状況になれば、そこから弾かれた人々をどう救済する?ここの部分で論じていくと、著作権の問題にしろ、一部自治体が実施してる“図書館のTSUTAYA化”の議論にしろ、根幹的な部分を論じずに批判をすれば、必ず話は平行線を辿る事になる。こうなると、どんなに交渉の場を設けても、絶対に意見が纏まらなくなる。
では、どうすれば問題は解決するのか?仏法的に言えば“大小相対”の理をもって、考えていくと、それこそ“適材適所”で官民が相互協力をやっていく事が基本であり、例えば防災の面でいけば、公的避難所とそこへ向かう経路を整備するのは行政で、非常持ち出し袋等を用意しておくのは個人でやる方が手っ取り早い訳であり、救助を行うにしても、自衛隊消防団等が来るまでにやれる事は、個人レベルで行えた方が手間が省ける。しかし、阪神大震災の時でも、そして東日本大震災でもそうだったが、肝心な部分での行動が、あまりにもチグハグ過ぎるから犠牲が増えるだけであって、優先順位を間違えてるからややこしくなる訳である。もっと言えば、避難が最優先である以上は、その移動で転倒して負傷しようが、放射線の過剰被曝を受けようが、自分の命を守る事が先となれば、それは仕方がない事と開き直るしかない。逆に言えば、原発事故を起こさない様にしようと思ったなら、避難よりも先に原子炉の冷却を止めてはいけない事ぐらい、福島第一原発の現場にいた人間ならわかってたハズである。だけど、自分が“犠牲になりたくない”が為に、多くの福島県民が(いろんな意味で)傷付いたのは、いうまでもない話。反原発脱原発を唱える人らもまた然りで、何の為に訴えているのか、その軸がブレてしまっては意味がない。むしろそれが原因で、福島県民だけでなく、ひいては広島や長崎の被曝者すら“抗議の為の生贄”として担ぎ出され、余計な人権侵害を受けるハメになる。以前、はてブの方でも書いたが、訴えるべき事の“主眼”を忘れて騒ぐのは、現実を無視して引き篭もるニートと一緒。(いや、ニートに失礼だなw)どんな悲惨な出来事があっても、そこから立ち上がって、自らの意志でそれらと向き合い、未来を構築していこうとしてる人達に必要なのは、真の意味での共生…“Living with…”の観点からの“協力”である。
その為の活動であるなら、どんな思想や宗教概念、民族的な風習であっても、そこにはちゃんと意味があり、そしてそれらは“次世代”を生きる者の糧となる。そこんトコを踏まえず、ただ単純に“白人共が…“とか、“日本人はけしからん”とか、“これだからムスリルは…“とか言ってる様では、却って差別を助長するだけ。それが本当にお望みならどんなに罵ったって構わん…自分の不幸は、自分が望んだ結果であって、誰かのせいではないからだ。だからこそ、誰かの為に自分が犠牲になってでもやるべき事を“生業”とした以上は、それに似合うだけの賃金や見返りを求めるのは当然の権利であり、そこんトコを履違えて横暴な事を言う者は、それは客人として扱ってはいけない。もし、“客人”としてもてなすのであれば、相手から奴隷扱いされても文句を言うべきではない。代わりに、そういう横暴な態度を取る者を哀れみ、自分達がいなければ“何もできない”という証拠を突き付ければ良い…そもそも、自分でなんでもできる“器用貧乏”は、物質的に“貧乏”だからこそ、様々なスキルを身に付け、それを使いこなしてるだけであり、その技量価値をどう評価して良いかわからないから、そうなるだけの話。一芸に秀でたる者は、故の“欠陥”として、使いどころを誤ると“役立たず”になる。才能を僻む人に限って、実は自分に自惚れてるだけ…他の才能を“犠牲”にしてまで、精進し続ける事を選んだ人だけが、初めて他者からも認められる“有能者”と言える訳なのです。