迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

幸せってなんだっけ?

とあるサイトで、世界の幸福度をランキング形式で紹介したんだが、日本は先進国の中で、最下位だったという…けど、モノの尺度は様々あって、且つ、本当の“幸福”を考えた時、何をもって“正解”かは、正直、ないと思う。なぜなら、どんなに最新鋭の技術を詰め込んだ家電を持ってても、どんなにきらびやかな衣装を持っていても、どんなに健康面で優良で、特異な身体能力を有してても、どんなに浪費しても有り余るほどのエネルギーを産出できても、そして、それらすべてが備わった“理想的な状態”に自分がいたとしても、精神的に“満たされない”ままだと、ぜーんぶ、無駄になる。御金言“蔵の財より身の財優れたり、身の財よりも心の財第一なり”とは、まさにそれ。どんなに物欲を満たしても、体が健康じゃなかったら、医療費に消えることになる。健康優良児であっても、存在価値を認めてもらえない事を理由に他者を傷つける様では、有能な人間とは言えない。貧困でも、病弱でも、心の底から“満たされた状態”であれば、そんなハンデ、気にする必要もなくなる。つまり、心の問題に対して、金銭や体力といった目に見えるカタチだけでランキングをつけても、何の意味もないし、本当に“幸福”なのかどうかは、その“裏側”を知り、それでもそこに住む人たちが“笑顔”でいられるかどうかに掛かってる。日本人は、いろんな意味で“能天気”だから、他人を羨むあまりに、自分の本当の“幸福”を見失いやすい。
さっきも言ったが、“幸福”という感情は、人それぞれであって、その尺度や感覚は何も、金銭などの物質的、あるいは力量的な単位で決まる訳ではない。お金がなくったって幸せになれると思える人は、ゆえに都会の利便性を捨てて田舎暮らしに憧れる。逆に、お金があればなんでもできるという感覚の人は、ゆえに自分の自由も何も捨てて、ひたすら賃金に繋がる仕事に邁進する。たとえ、それで身体を壊したとしても、それに似合うだけの賃金がもらえるのであれば、がむしゃらになる。けど…ある日突然、そういった条件が“奪われた”あるいは“消え去った”時、それまでに犠牲にしてきた事を悔やむことになる…なぜなら、仕事場を失えば、役目もないから、自分の居場所すらなくすことになるし、お金を持ってない人は、ゆえにそれを取り戻すことすらできない。金がある人でも、その金を使って他者から奪うことはできても、その分の恨みゆえに、常にビクビクしなきゃいけなくなる…被害者からの報復が怖いからだ。どっちにしてもこれは“間違った幸福論”であり、本物ではない。
真の意味での“幸福”とは何か?個人的なことを言えば、様々な理想を思い描く人も多いかと思う。けど、それを本気で実現できたとして、それが本当に“幸福”と言えるだろうか?もしそうだとするなら、それに似合うだけの“対価”として、失ってる部分も多いと思う。女性の婚期が遅れ、子供を産みたくても年齢的に“アカン”と医師に言われたら、それまでに費やした時間そのものが無駄になる。だからと言って、早めに結婚して子供を産めたとしても、子育てに難儀する様な環境では、ゆえに生まれた子供自身も“邪魔者”扱いされる事になる。男性もまた然りで、もっと遊びたいと思って歓楽街で派手な事をしまくれば、いらん性病に罹患したり、望まない妊娠をさせられた女性から責められる事になるし、それが嫌で引き篭もって、二次元にハマれば、世間から“イタい人”とか“キモヲタ”とか言われて敬遠されるし、焦るあまりに出合い系サイトで詐欺に遭って、泣くハメになる。どっちにしても、どこかで誰かが犠牲になる理は、何人たりとも逃げられない宿命である。しかし、それを他人のせいにしてる内はともかく、自分自身が“選んだ事”として受け止め、それをなんとかしようと足掻き、苦しんでいるうちに、それは“使命”と言い聞かせられる様になる。子供(世継ぎ)がいなくても、それに似合うだけの人材を育成できる知性と技能があれば、肉体的な血脈が途絶えても、自分の意志や知恵を、多くの人々に受け継がせる事ができる。どんなに恵まれない環境にいたとしても、自分にできるスキル全てを駆使して整えていけば、誰もが羨む快適な生活ができる基盤が生まれる。
そのための“犠牲”は、必要悪にして根元悪である。他人を羨むあまりに私怨を抱けば、やがてそれ故の閉塞感に見舞われる。一流の大学に進学できればとか、一流の企業に入れば…とか、自然環境豊かな場所だったら…とか、凍らぬ海が手に入ればとか、年中涼しい場所が…とか、様々な欲があれど、それは結局、自分の今いる場所が、本当の“約束の地”であることに気づいていない証拠であり、他者を羨むあまりに、自分自身を見失った、愚かな姿でもある。もちろん、時には息抜きで旅をすること、美味しいものを食べること、何もかも忘れて遊ぶことも必要だけど、それはあくまで、些々やかな事…つまり、年がら年中それができる様な人は、単に現実逃避してるだけで、満たされない心を抱えたまま、苦しんでる。しんどくても、辛くても、一見自由が無い様に思えても、心から満たされた状態であれば、次に進む事ができる。立ち止まってしまうのは、満たされないどころか、“今”を失うことが怖くて、そして、取り戻せない事を本能的にわかっているからである。
つまり、現状維持が“幸福”だと直感的に思う人ほど臆病になり、本当の幸せから遠のいてても、それがわからないから“不幸”となる訳である。本気で人が羨むような幸福になりたいと思うなら、今現在の“幸福”を捨てる覚悟と、過去の因習からの嫌がらせに怯えない事である。どんなに悪口を言われようが、理不尽な事柄に遭遇しようが、胸を張って笑い飛ばせる人になろうと思うのであれば、自分だけの理想や幸福に固執しない事…相手を思う事は当然として、その先…自分の後ろについてきた人達をも巻き込んだ、ダイナミックな変革をもたらすために尽力する事にこそ、本当の幸福はある。心が満たされないのは、ひとりぼっちだからでも、自分の思い通りにならないからでもない…現状に固執して他力本願になってるからである。