迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

今年もこの企画の時間だぜw

ういーっす、オレだ。マーグだぜ。オレがこうやって出てきたって事は、あの“命日企画”週間だってこったw 今年もジャンクな夜食・軽食、酒のアテを紹介しながら、時事ネタを絡めて展開する予定…ま、間に阪神大震災関連の話をするから、今日からスタートってことになる訳だがw
それにしても、去年の秋ぐらいから、結構物騒な事柄が発生してる様だけど、オレから言わせれば、結局は“リヤ充爆ぜろ”の僻みが、あらぬ方へ向いちまった挙句、その“責任”を宗教理念になすりつけてるだけにしか見えん。これは、マスターが常々言ってる事だけどよう、自分が貧困で不幸なのは、全部“他人のせい”にしてるからであって、そして、自分以外の幸福を願えない、狭くてみみっちい精神の幼さが、暴力に繋がってるだけだってこった。そら、オレの“生前さん”だって、そういうトコはあったけどよ、時が経って振り返ったら、若いコがいう“厨二病”ってヤツだったんだと気付くんだよ。だって、オレだって歳を繰って、それ相応に世間の仕組みを知っていくと、次第に自分が今までやってた事が、如何にくだらなくて、他人に多大な迷惑をかけたかを、しみじみ感じる様になるんだよ。そん時の小っ恥ずかしいことw 本当に自分が“正義”だと言えるのであれば、誰一人たりとも恨みは言わねぇって。正義がある以上、その対となる“悪”があって、それが表裏一体だから“共存”できるんだぜ。どっちかが滅べば、ゆえに残った方が迷うんだ…自分の存在感を確かめる術がなくなるからさ。だから、時として“両成敗”せんにゃならん時だってある。“相手”あってこその“自分”であり、それを認め合えてこそ、初めて喧嘩も対話も成り立つんだ。それを嫌った時点で、話にならんな。もちろん、嫌うのも一つの選択肢であり、そうするのも自由の範疇だ。けどよう、だからと言って、他人の幸せを破壊したり、大切なモノを奪ったり、信念を罵る権利は、何人たりともねぇんだよ。“自由”ってのは、案外、不安定で危なっかしいことなんだ。だから、それを是正するために、セルフコントロールの手段として、社会通念上のマナーやルールってのがある。互いに“恨みっこナシ”という条件だ。それが耐えられないって事は、他人に迷惑をかけてる自覚もなければ、周りがそれをキチンと指摘してこなかった事に、自分が奢れているからって考えられるんだよ。まぁ…なんらかの“ご褒美”が欲しくてやってるのであれば、それは動物園やテーマパークで調教された動物と一緒で、自分のメシを確保するための手段として、本来の技能を転用してるだけに過ぎねぇ。宗教ってのもその至極は、共栄共存のために譲り合う事と、相手を理解するために、対話と交流を続ける事が主軸になる。それを断った時点で、しょうもない理由を振りかざして大騒動になるってこった。
だからこそ、本物の“正義”ってのは、暴力によって成り立つのではなく、その先の“対話”があってこそだってこった。対話なき暴力は、破壊以外何もできない。民衆救済の手立てってのは、何も武力や兵器で片付くような単純なことではない。破壊した後は構築が伴ってこそ、初めて本当の意味での“戦争”の勝利者ってのが決まる。そういや、今年て終戦から70年だっけ。そういう意味では、そろそろ戦火が恋しくなる頃だろうなぁ…それだけ世界に閉塞感が満ちてるってこった。だが、それは自分自身が“傷つかないように”と願った結果だ。傷ついても守りたい、あるいは、貫きたい信念がある以上、激突するのは仕方ねぇ部分だ。だからこそ、時として身を引くことも、後続に引き継がすことも必要な事なんだぜ。そうやって、先人達から引き継いだ“生命のリレー”を、自分でケリつけて絶やすか、後に続く者達に引き継がせるかは、自分次第だってこと。マスターはその究極の選択に対する一つの答えとして、オレたちの代弁を請け負った上で共存する事を願ったんだ。それがオレみたいな存在ってことになるな。

ま、そんな訳で、明日からはオレが軸になって、更新するからな。今年もよろしくだぜ。