迷馬の隠れ家 はてな本館

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“異体同心”と“摂受・折伏時による”の解説。

日蓮仏法…いわゆる“御書”の研鑽で、クドいぐらいに学ぶ事柄として、“異体同心”という言葉がある。これ、今の日本人が、否、世界中の人々が、件の“厨二病患者”を懲らしめる上で重要となる部分であり、ここの部分を勘違いしてると、余計に厄介な事になりかねない。そこで、同時進行で“摂受・折伏時による”という“佐渡御書”の一節を交えながら、根幹的なことを解説しておこうと思う。
まず、言葉の意味としての“異体同心”って何かといえば、個々の才覚や役割が違ってても、同じ目標を掲げて支え合うことを指す言葉で、互いを尊敬しあい、信頼している様を指す。つまり、民族や風習、信仰などの違いはあれど、お互いの存在を尊重し合うことで共存できる社会を築こうという目標に向かって活動する者は、ゆえに誰からも支持され、成就させることができるという概念である。“異体同心事”という御書(業務連絡:2月度の御書講義の範疇ですよ。)には、その故事として殷の紂王と周の武王の戦争が取り上げられているが、どんなに優れた兵力を有し、大規模な攻撃を展開できる軍勢を有してたとしても、紂王自身が暴君すぎて、役立たずだったのに対し、民を思い、父親の文王の苦労を思い、一緒に尽力した先人達を敬った武王の軍勢は、少数精鋭だったにも関わらず、殷の軍勢を蹴散らした…という内容をもって、肝心なのは互いに“尊い存在”として支え合い、信じる心にこそ、苦難を打破する力になるという事を教えたかった訳である。つまり、心が折れない限り、また、折れてどうしようもない時でも、そんな自分を支えて助けてくれる存在がいると信じられるのであれば、必ずどんな願い事も成就すると説いている。そして、他者に対しても、単に努力を認めるだけでなく、それゆえに尊敬できるという意思を見せる事で、相手も同じ様に自分自身を認めてくれる…だから、相手をバカにして見下すような態度をとる者に対し、どんなに武力で脅されようと、詰られようと、自分から屈してはならない。その意思表示として、紛争地域であっても人道支援を行い続けることが重要であり、それを今までやってきたから、今回の事件でも欧米各国のみならず、中東のほぼすべての国が日本政府に同情的になっている訳である。ここを勘違いして、自衛隊や安倍政権を叩いてる人々は、その時点で愚かでしかない。何度も言ってるが、日本(正確にはJICAや日本人が関わっているNGO組織)が長年、地道に中東の開発と、戦争からの復興に尽力した経緯を知っているイスラム教徒や地元住民が、その貢献を認め、協力を惜しまなかったから信用されているのであって、その“関係”をぶっ壊した上で、もう一度中東を“戦場”に戻そうとしてるのが、件の“厨二病患者”である。ここの部分を履き違えて、政権批判をやってはいけない。
ぶっちゃけ、自分の国を、その政治を信じてやることができないのであれば、それは、そういう政治を望んだ先人たちに失礼であると同時に、彼らと直接喧嘩しなかった有権者の責任である。それが、本来の“国民主権”で成り立つ民主主義のあり方であって、選挙権があるにも拘らず、“民意が反映されない”と文句言って選挙に行かない国民の方が、よっぽど“無責任”でしかない。そして、日本がなんで“立憲君主制”をとっているかといえば、日本国憲法の上では、天皇及び皇族が、政治に首をつっこむ権限を排しているが、土壇場になった時…特に再び日本が戦火に巻き込まれ、現行の政治運営が困難になった場合、その“責任”を請け負う存在だからである。つまり、天皇と日本国民の“信頼関係”があってこそ、日本国憲法は守られるのであって、その関係が潰れていたら、万が一、首都圏中心に大規模なクーデターが起きて全国で騒乱状態になったら、誰がそれを止められる?警察でも、自衛隊でも、為政者でもない、地元住民で止めきれなくなった時に、初めて天皇の存在が大きな役割を果たす事になる。被災地や戦地となった場所に慰問されるのは、その一環であると同時に、真の“国長”としての責任の所在を明らかにするための行動である。だから、戦後、昭和天皇は積極的に全国を行脚され、また、その役割を引き継いだ今上天皇も、ゆえに東北や広島の被災地を廻られ、さらに今年は太平洋戦争での戦地へ慰問されるのである。言っておくが、先の戦争を引き起こしたのは、二・二六事件以降政権運営を行った、かつての日本軍(特に陸軍)将校たちであり、それを止めることができなかった当時の政治家たちである。だが、その“責任”は、大日本帝国憲法下において、一切は天皇の意思で決まる事になっていた…それゆえの話である。
で、ここんトコ、一部メディアで、この“事件”の責任は安倍政権だと批判しないと…という血迷った報道が目立つのだが、これこそ、“摂受・折伏時による”の御金言を鑑みれば“アホか”と一蹴できる話。言いたい事はわかるのだが、今の時点では見当違いも甚だしい話であり、むしろ“異体同心”の意味を履き違えているとしか言いようがない。昨日も記載したが、犠牲者自身は、あくまで個人的な目的で中東に行ったまでであり、また、人道的支援を行うために現地に留まったまでに過ぎない。それを“厨二病患者”が、かつての“鬼畜米兵”感覚で襲ったまでであり、また、ヨルダン政府も自分トコの兵士を人質に捕らえられて、どうにかしようと思っても、相手が交渉に乗らないどころか無視してるモンだから“相手にならんw”と言ってる訳である。もう一度言っておくが、今回の事件自身、一番無責任なのは政府でも被害者でもなく、“厨二病患者”自身である。そして、事件に巻き込まれた被害者を“盾”にして現行政権を批判する行為は、厨二病患者と同類であり、国際社会での同調機運に対して足を引っ張る行為でしかない。つまり、今は政治手腕を批判する時ではないのに、勝手にバッシングする行為は、却って厨二病患者の“思うツボ”である。逆に、集団的自衛権の“拡大解釈”で自衛隊を派遣した上で、中東諸国のどこかを“占領”した時に、それを賞賛する方がおかしい訳であり、それこそ“時による”批判を間違えた姿でしかない。もっと言えば、そういう部分を国民に代わって監視するのがメディアの仕事であって、何も問題ない状況においておかしなことをやっているとバッシングする方が、正直、有権者にミスリードを起こしかねない。だから、報道規制がかけられるのも、すべてはメディアのモラルハザードの認識が甘すぎる事にある。要するに“言論の自由”を履き違えて“暴力”を振るっているメディアこそ、民衆の不信を煽るのと同意であり、厨二病患者の一員と罵られるのは、ごく当たり前な話である。朝日新聞社阪神支局襲撃事件ってヤツも、やったヤツ自身は当然の報いを受けるべきではあるが、そもそもの原因を尋ねたら、おそらく、朝日新聞社を同情することはできない。むしろ、当該記者ではないハズの小尻記者が(いろんな意味で)気の毒でしかない。(彼自身、たまたま当直でそこにいただけであって、それゆえに殺されている訳だから、とんだとばっちりだった事はいうまでもない…)ここの部分も、きちんと分別つけて話すべきであり、まっとうな報道をやってるのであれば、襲撃する方が厨二病患者であって、偏向報道や情報の改竄をやってるのであれば、それこそメディアの方が厨二病患者である。ぶっちゃけ、因果応報の理に照らせば、どっちもどっちな話でしかない。
だから、情報に惑わされないようにしようと思ったら、大まかでもいいから近代史・現代史を学んだ上で、そこから類似する事件や騒乱を予測し、その“情報”の真贋を見極める目を肥やすことが、これからの情報社会において重要な事となる。そして、今の自分があるのは先人たちの苦労あってこそ…という概念を忘れてはいけない。但し、時代に合っていないシステムやルールに関しては、自分たちで適度にカスタマイズすることを視野に入れて論ずるべきであって、責任の所在を明確にした上でモノは言うべきである。したがって、このBlogの記事に関して、オイラが書き込んでいる以上は、オイラに責任がある。そして、批判をするのであれば、その批判に対して自分自身が責任を持つべきである。それができないのであれば、とりあえず黙れ。そして無視しろ。