迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“問題発言”の本質を考える…

なにやら、先週末の“サンデーモーニング”でのやり取りが話題になっているようだが、番組を見てないオイラ的には、どうでもいい話であり、んでもって、侮辱を受けたとされる当人は、いたってポジティブな返答を行っている件を踏まえれば、外野の者が勝手にワーワー騒ぐような話ではない。どうしても、それを“問題”として取り上げるのであれば、自分はそれに似合うだけの見識と概念、思考があるか…今一度問い質さねばならない。
では、“問題発言”と称される言葉は、何をもってそうなるのか?先に結論を言えば、その“世界”でしか通用しない“常識”や“地位”“経験則”だけで他の物事を推し量ろうとするからおかしくなるのであって、自分と異なる次元の人と同一化しようとすれば、感覚的なズレを伴うのは当たり前な話である。同時に、自分と同じ“世界”にいる人同士の会話ならどうって事のない話でも、“異世界”の者にとっては軽蔑の類であったり、誹謗中傷に聞こえる事は日常茶飯事。つまり、発した人間よりも、受け手となった側の心情だけで“言葉の価値”が決まるから、発言の対象者に通じても、第三者…特にファンを称する部外者が聴き齧ったレベルだと、途方もない誤解や偏見が生じるのも“当たり前”な話である。言い方を変えれば、本人と対象者以外には通じない会話をやった時、その間に居合わせた第三者は、本来であれば、余計な口を挟む権限はないし、むしろ双方、こちらの存在を無視して話してる訳だから、蚊帳の外である以上、単純に“聞き流す”だけでいい訳である。しかし、その“対象者”が自分の“師匠”であったり、“憧れの人”だったりした場合、どういう訳か、“自分”までもバカにされた気分になる事が多い。ここにこそ、一番の“遺恨の火種”が存在する。あくまでも、自分自身には何にも関係ない事なのに、なぜか当事者以上に相手を批判してしまう訳である。
SNS上での批判でも、その多くは当事者自身の“大人な対応”なコメントをもって、事を沈静化させる事ができるんだが、中にはそれでも今までの態度などを加味して憤慨した挙句、その“勝手な恨み”を晴らすべく暴言を吐くバカがいる。これは、どうする事もできないし、発言の当事者が謝罪と番組降板をやったとしても、ネチネチとしつこく嫌がらせをする…それって、単に当事者の“思うツボ”なのにねw
ぶっちゃけ論でいえば、要は世間に対して愚痴が言えなくてイライラしてるからこそ、匿名性を利用して自分自身も暴言を吐きたいだけなんですよねw でも、逆を考えれば、どんな暴言でも拾ってもらえる立場の人が羨ましいだけであり、また、一芸に秀でた著名人をバカにしたいからこその態度が、SNSでの“騒動”に発展するのです。しかも、実社会で自分が他人から文句を言われたくないあまりに、できるだけ“相手”の知らない“世界”でこっそりと…って思惑、SNSに持ってません?先に言っとくけど、どんな発言も、言語の違いはあれど、インターネット上に一度でも発言すれば、一瞬のうちにコピーされた挙句、世界中に、自分の無知さから来る恥をバラ撒いてるのと同じだって事、わかった上で利用してますか?(おいそこのアニヲタ、バレねぇからと言って、あんまり他人の悪口書いてると、終いにゃ当事者にバレてエラい目に遭うで…オイラもだけどw)オイラがSNS…特にTwitterで他人の悪口を、できるだけツイートしない“理由”は、ここにあります。自分が発言する“言葉”に“責任”を負う以上、炎上するのも無視されるのも、それは自分自身の行いに対する“評価”であり、相手を恨む筋合いはない…だからこそ、時として嘘をつく事も必要であり、自分自身を痛めつけて傷つく事も重要なのです。“相手”の痛みや苦しみを理解するためと、“相手”からの信頼と実績を積み重ねるためには…ただし、だからと言って関係ない事にまで首をつっこむ必要はありません。自分にとって、その“言葉”は自分宛なのか、そうじゃないのかを見極めてこそ、初めて“言葉の真意”を悟る事ができるのです。