迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“百田問題”から見え隠れする、マスメディアの腐敗。

自民党の若手議員勉強会での、百田尚樹氏の“沖縄のメディアは潰すべき”という発言。発言の本意は、真実を伝えず、発信者としての責任を負わずに他人を批判する態度に対して、しかも個人的な意見として述べたまでであり、まして、当の本人は自民党議員でもなければ、むしろこういう“危険思想”ゆえにメディアに干されてる放送作家である。それをさも、自民党議員の発言のように報じてるマスメディアは、また、政治の混乱を招こうと躍起になってるようにしか見えない。これじゃ、国民が本当に求める“平和と安全”を、そして、憲法の下で保障された自由と平等を否定してるようなモノである。そんな権限、マスメディアには、一つもない!!もう一度言う…マスメディアに、法の下での自由と平等を否定する権限はない!!
つまり、自分にとって“都合の悪い意見”を封殺する権限はあっても、他人にそれは“存在しない”というのであれば、逆もまた然りである。どんな人間でも、それぞれが抱く“正義”がある。それは、時として、他の人から“悪”として罵られる事もある。しかし、それはそれぞれの価値観の違いであり、また、立場上の違いから、感覚的に違って当然の話である。しかし、自分の掲げる“正義”に固執し、周囲の関係性や経緯を無視して他者の意見を否定すれば、どんなに理想が尊く、しかも誰が見ても完璧な思想であっても、ゆえに批判され否定される事になる。逆に、一見すれば極悪な存在であっても、土壇場で自分が世話になったり、どうしようもなく自分が犠牲を払わなければならなくなった時に“人身御供”になったりしたら、今までの関係を維持したまま唾を吐き掛けて詰る事ができるか?それができるのであれば、相当なる“極悪人”である。(ま、それを“利用”して強請るのが、暴力団や市民団体だったりする訳だが…w)
もう一度、百田氏の発言の経緯を考えれば、発言した場所がマズかったとしか言い様がないだけで、それを“オフコメ”にせずに公開した自民党の勉強会は、非常に“情報提供”に貢献してると言える訳であり、どこぞの元大臣が“コレ報じたら、潰す”と発言するより、よっぽど情報の開示度、自由度が高いと言っていい。更に、国会の本会議で、本題と関係ない質疑を行っている野党の態度の方が、よっぽど国民をバカにしすぎてないか?そういった事を踏まえると、メディアは何がしたいかといえば、自民党の下野と、自分の“思い通りの社会”にしたいだけです。しかし…過去に自民党から政権が移行し、舵取りを行った政党がどうなったか、忘れたとは言わせません。もっと言えば、メディアの“改革”を政府や議員が訴えた途端、それを“排除”させるために、どんだけ情報操作を行ったか…それに気づいた人は、百田氏の発言に対して野党議員がギャーギャー騒いでる事、そして安保法案と関係ない事なのに“言論の自由が…“と騒いでるマスメディアの態度に“違和感”を覚えてるハズです。国民の生活を守るための法案であり、また、近隣諸国からの挑発に対しての抑止として、国際法的に集団的自衛権は、たとえ憲法9条で武力行使に規制がかかってても保障されているのに、それらを全て“否定”してる訳ですから、いかにメディアの内部に“お花畑”が多いか…
冗談抜きで言えば、今の既存メディアは、いかに国民を、そして政治家を“喰い物”にしてきたか…それゆえに、一しがない三文作家に“潰れろ”と罵られて、ブチ切れてる姿は、いじめっ子が“裏切り者”のせいでチクられた事を逆恨みして、自分より弱い立場の人間を死に追いやる姿と、全く一緒です。そこに“正義”なんてモノは、何ひとつ存在しません…単に自分の“感情”に負けた、醜い妖怪です。オイラが小学校の時に見た、無様な滑稽な姿です。いじめっ子の殆どは、自分の親の肩書きや功績を、さも“自分の手柄”のように振り翳し、その上、自分の親に対して巧妙な嘘をつきます。が、大人になるにつれ、その威厳が意味を為さなくなると、途端に立場が逆転します。いじめられた被害者は、一方では“別の世界”で相手よりも優位に立つ事で、過去の罪を帳消しする事ができるが、そうじゃない人は、延々とそこに固執し、逆の立場になっている事も知らずに、しつこくネチネチと恨み続けます…なぜなら、それ“以外”の可能性を“奪われた”以上、そこしか自分の“生きる道”がないからです。だけどこれって、精神的な“甘え"です。さっきの前者は、なぜそれを乗り越えられたか?簡単な事です。ひとつの“事案”に“固執”してるヒマがないほど、自分の“可能性”に果敢に挑み続けているからです。そういう人は、どんなに侮蔑されようと、傷つけられようと、絶対に屈しません。だって、そこで立ち止まっていたら、自分が本気でやってみたい事も、叶えたい願いも、何にもできませんからねw
自分の可能性を奪っているのは、結局、自分自身である事に気づかない人は、ゆえに自分の叶えたい事が何ひとつ達成されないのを、いつまでも“他人のせい”にしてるからです。もっと言えば、自分の一過的な感情に溺れ、自分自身に甘えているからです。本当にその“正義”が正しいのであれば、なんでこんなにたくさんの“犠牲”が生じたか、きちんと検証しなければなりません。しかし、だからと言って、いつまでもそこで立ち止まっていると、それゆえに自分の理想や概念が“時代遅れ”になるだけです。何度も言いますが、百田氏個人への批判は大いに結構、だけどそれに絡めて政府批判へと問題を刷り替えようとする野党とメディアの態度は、言論の自由への冒涜です。自らがそれをやっている以上、政府が言論規制をかけたとしても、それは“自分が撒いた種”です。一般庶民に虚偽を報じて、それに対する一切の謝罪ナシで政府を、そして発言者を罵るメディアは、朝日新聞社阪神支局襲撃事件を忘れたとは言わさない。これとて、亡くなった小尻記者は、朝日新聞社の記者だったからこそ殺されたようなモノであって、他の新聞社であったなら、襲われていなかった可能性だってあった。そして、それは代わりに他の記者が犠牲になっていた可能性もあった事を意味する。記者一人守れないようなマスメディアが、三文放送作家の戯言に目くじら立てる筋合いはない。そして、国民を蔑ろにした報道しかできないメディアやジャーナリストは、とっとと言論の場から退場願いたいモノである。