迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

勉強する事はいい事だが…

安保法案に関する記事で、こんな意見が上がっている。至極真っ当であると同時に、なんでこの記事を書いた人が、既存マスメディアの社員を辞めたのか、表向きの情報はともかく、なんとなく理解できる話だと思う。しかし…一つだけ欠点を申し上げると、“勉強しろ”と言って、できる人は、とっくの昔に六法全書国連憲章に関する資料を熟読してるだろうし、もっと言えば、自分の言葉できちんと理解できてるハズです。ま…それ故に意見がバラバラな訳でw
話は変わるが、ちょっと気になるニュースに、自分の子供をガッチガチに勉強に集中させる環境においてあるのに、成績がダダ下がっているのが腹立たしいという趣旨の質問が投稿されていたというネタがあったんだが、詳細を読むほどに、これは、おそらくネタである事を前提に申せば、勉強を強要する事による“育児放棄”が考えられる内容だった。(正確には“教育虐待”というらしい…)そもそも、一流大学に入学させるために、しかも進学系の中高一貫校へ入学させるために、強制的に塾へ通わせたり、通信教育をやらせたり、更には、ゲームや外での遊びを禁じたりと、子供に自由を与えずに、ただ単に“いい学校へ進学させたい”という親のメンツのみで質問してる時点で、“ああ、こりゃ育児失敗してるなw”って、オイラは感じている。これでは、成績が下がるだけでなく、積年の恨みが何時、自分自身に降りかかってもおかしくないなと感じずにはいられない。自分の子が持っている“天賦の才能”を信じてやれぬ時点で、親として失格であると同時に、人格形成のためには、外部からの刺激が必要不可欠なのに、それを阻害してる時点で、佐世保で起きた同級生殺害事件や、名古屋の女子大生が老婆を襲った事件、かなり古い話を持ち出すとしたら、所謂“酒鬼薔薇事件”といった、未成年がやったとしては、あまりに残虐かつ異常な事件を犯してもおかしくない状況ではと勘ぐってしまう。
“勉学”はやった方が良いのは確かだが、それを強要したって身につく訳ががないw なぜなら、苦痛しかない強要は、故に様々な事を経験しても、思い出すのも嫌になってる以上、忘れるのがオチであるw どんなに学校教育で英語を習っても身に付かないのは、そういう事である。逆に、基礎知識や常識がなくても、自分が興味を示し、積極的に関心を持っている事に集中すれば、自ずと関連する知識も身に付けられるんで、一挙両得な結果になりやすい。例えば、パソコン・タブレット端末の操作が苦手な高齢男性に基本を教えるには、実はエロサイトの検索をやらせる方が、一番身に付くのだそうな。(いろんな意味で、エロは最強w) 同じ理屈はいろんな事でも通じる訳で、海外のアニヲタが日本語を流暢に話せるのは、日本のアニメやその原作コミック等を、日本語のままで見聞するからであり、ミリタリーヲタクが英語やロシア語等、外国語をある程度理解できるのも、そういう関連の資料が向こうの言語で表記されていたり、トリセツも現地語表記である事が多いためである。また、様々な事案には、それに付随した知識が必要となるから、学校での成績がダメポでも、得意分野に絞った時、その特異なまでの知識や経験値がモノを言う事になる。
オイラの場合、高校卒業するまで、基本5教科のうち、理科と社会科だけはぶっちぎりでクラストップだった事があり、その中でも、地質学と地理学、気象関連と文化に関する分野では、他の追随を許さないほどでしたw てのも、実は社会科の殆どは、他の教科に密接に関連した項目があって、そこに興味を示せば、自ずと話がわかりやすかったのです。逆を言えば、縦割りに言語や方程式を習っても、頭の中はチンプンカンプンで、関連性のない項目に関しては、未だに頭に入りませんw つまり、オイラの場合において、学びの根幹は双方の“関係性”が重要であり、関連項目であると理解できた時点で、どんどん頭に入ってくる訳です。故に、英語だけとか、数学だけとかといった学び方では一つも身に付かないどころか、面白くないから授業中に居眠りなんて日常茶飯事でしたw 逆に国語でも古典の場合、どうしても“御書”を読む関係から必然的に気合が入る訳で、しかも日本史を学ぶ上でも資料となる古文書を解読する必須スキルである以上、そこで点数を稼ぎましたw(国語の他の分野はからっきしなのにね…)
そこんトコを理解したいのであれば、まずは親も一緒に子供の勉強に付き合い、子供が興味を示し、子供自身が理解可能な分野に集中させる事から始めるのが、成績向上につながるのです。そこを無視して様々なことを学ばせても、何も身に付かないどころか、それ故の拒絶反応が起きます。つまり、成績が落ちた最大の原因は、子供自身が自分の生きている意義と目的を見失った挙句の“脳の許容量過多による拒絶反応”に陥ってるのです。これを解消させるためにも、息抜きとして、どこかのテーマパークに連れ出したり、危険を承知で野外キャンプをやってみたり、普段では体験できないような事を、一緒になって“遊んでやる”事が重要なのです。それをも奪っておいて、なおも“勉強しろ”と言ってるようでは、就学を口実にした“育児放棄”同然です。そのしっぺ返しに、残虐な殺人に走るか、いじめを理由にした自殺をするか…子供である以上、自分の親に甘えたい、構って欲しいと思うのは、小学校までの子供にとっての“特権”です。それを無視している以上、自殺を止めてやることも、凶悪犯罪から守ってやることも不可能です。“親子”という関係は、単なる“血の繋がり”ではなく、互いの存在を必要なモノとして意識する…“信じる心”です。その概念が欠如していて、果たして“親子”と言えるのでしょうか?自分が最高学府まで進めなかった報復を、自分の子に託すのは結構だが、自分の子供だからといって“自分の分身”ではありません。どんなに“血の繋がった関係者”であっても、子供には子供なりの人格があります。それを無視した挙句“私物化”するのであれば、その子の“人生”を奪った責任を、どこかで埋め合わさなければなりません。先に挙げた事案もそうですが、いじめを苦に自殺した子供たちが責めているのは、加害児童や担当教師ではなく、自殺した子の“親”です。表面上では加害者全員が負うべき罪でしょうが、死に追いやった一番の要因は、自分の子を直視せずに、学校での成績や巷で流れている情報に惑わされ、感化された挙句、我が子に余計な事を強要した親の“態度”です。それを棚に上げて、加害者や教員を責めている以上、我が子自らの手で“失格”の烙印を押されたのは、当然の結果です。自分の寸志を改めずに、自分の信念のみで子供を語れば、ゆえに“我が子の姿”が見えなくなるのです…親である以上、子供から信用されなくなったら、そして、子供の“決断”に対して、それをありのままに受け入れられない様では、本物の親として失格です。互いに支え合い、学び合うからこそ“親子”の情は深く、互いを信じあえるからこそ“絆”はより強くなるのです。