迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

なぜ、凶悪犯は“再犯”をするのか?

タイトルに対して、先に結論をつけるなら、それは“自覚の無さ”です。犯罪者心理は被疑者それぞれですが、ごく一部の前科アリが再犯を繰り返すのか?その背景を知れば知るほど、まさに“十人十色”な訳で、しかも、なんらかの対策を講じたとしても、完全に防ぐことは不可能に近い。なぜなら、再犯に至るまでの条件や経緯が合致した際に、当事者がどういう行動を起こしたかで結果が変わるからです。再犯に至らなくても、警察や公安から嫌疑をかけられるのは言うまでもありませんが、それでもやってしまうのは、むしろ一般人であるオイラたち自身かもしれません…これを過度に人権侵害だの、不本意な差別だのと言われたくはありませんが、自分自身の生命や財産を守る上で、いろんな意味で致し方ないトコがあります。
では、どんな条件が揃えば、そういう状況になるのかといえば…

1)出所後の更生時に、周囲から奇異の目で見られ続けた。

2)国籍や出身地を聞いて、あるいは肌の色や宗教観をバカにされた。

3)学歴や家族の職業を他人から見下され、変な噂で険悪な状況になった。

4)法で定める罰則が“生ぬるい”から。

この4つから推測することが可能ではあるが、1)〜3)に関しては、周囲の人間の協力なしではどうすることもできない点であり、また、犯罪履歴をリセットしないと再就職などの社会復帰が困難とみなされたから、裁判所及び法務省判断で氏名変更や日本国籍への帰化を行って、できるだけ前科持ちが再犯に陥らない環境づくりをやってるんだが、最後の4)だけは、当事者以外ではどうすることもできない。言い方変えれば、更生させようと思っても、当人はむしろ“もっとやりたい”のである…もちろん、窃盗犯や盗撮などの痴漢行為、性犯罪に関しては、ある種の精神疾患であり、性癖ですから、どんなに逮捕し、懲役刑をやったとしても懲りることはないでしょう…しかし、殺人や傷害罪の場合、それが病理的なモノ(精神疾患orいわゆるフェチ)なのか、積年の恨みなどの一過的な感情なのかで、その後の更生ができるか否かが分かれる。ぶっちゃけ、感情的な部分も、ある意味病的な部分はあるだろうが、大きな違いは他人を傷つけたり、命を奪う事に“快楽”を感じるかどうかである。普通の人の場合、自分の不注意で他人を傷つけたり、死に至らしめたとわかった時、その罪の重さ故に、精神的に滅入る。さらに、自分自身のせいであると明確に分かってるから、他人との接触すら拒むほど臆病になる…こういう人は、まだ更生の余地がある訳だし、また、自分の責任の重さも知っているから、再犯に至る前に自分自身で歯止めをかける事もできる。が、そうじゃない人…特に、幼少期から自分より弱い立場の存在を傷つけ、苦しむ様を見てると自然に大笑いしたり、命を奪っても“おもちゃ”感覚てポイ捨てする事を躊躇しない人は、周囲の大人がキチンとサポートしてくれない不満と自分の思い通りにならない事を“他人のせい”にするあまり、さらに過激な方へと向かいます…そう、未成年の自殺者や極悪クレーマーと同じですw 要は“かまってちゃん”が、自分の快楽、達成感を満たすために選んだのが、他人を傷つけ、殺す行為なのです。これを止めさせようと思って、どんなに刑務所で更生のための職業訓練を行ったトコで、最終的には“無駄”になります…てのも、再犯を起こす殺人鬼は、弁護士が用意した“免罪符”すら“もっとたくさんの快楽を得る機会”としてしか捉えてないトコがあり、故にどんな“救済策”を施しても、すべては“自分の思い通り”になるための条件になるのです。
どんなに残虐な行為をしたくても、理性が働く人は、自分の思い描く世界感のみで発散できます…ゲームの中であったり、創作活動の一環でイラストや文章に認めたり、ラノベ等の物語上で想像したり…しかし、この4)に該当するケースは、もはや自分の“想像力”だけでは物足りないが故に、残虐行為に至るのです。そして、そこには“痛み”という実感が欠如してるため、どんなに懲罰を加えたトコで、すべて当事者自身の“思惑通り”なのです。当然ですが、死刑の判断が下っても、それは当人が一番待ち望んだ結果です…自分の所在がない事よりも、自分以外の人々が畏怖の念で自分にひれ伏す様こそ、当人が望んでいる“最高の結果”なのです。そのきっかけなんてのは、どんな些細なモノであってもいいのです。
今回、高槻で起きた中学生殺害事件も、Web上での情報をまとめると、前科持ちの被疑者は、更生よりも快楽に走った訳で、殺された中学生も、夜遅くまで繁華街…といっても寝屋川市駅周辺はそんなに賑やかなトコではないんだが、そんなトコでブラつかないでとっとと友人宅か自宅にいれば、襲われる事などなかった…一番悪いのは、当然ながら、己の満足を得るために命を奪った被疑者だが、その“きっかけ”を作ってしまったのは中学生自身であり、それを止められなかった被害者家族と近隣住民である。まぁ…被疑者はどこまでも自分自身の罪を認めないでしょうね、自分を追い詰めた者に対する恨みがある以上は。被害者はやるせないだろうが、ぶち当たった相手が悪すぎた…自分の親を恨んだり憎んだりするのはいいが、だからと言って、事件に巻き込まれ“無言の帰宅”したら、どんだけ親が悔やむか、どんだけ親友や担任教諭が悲しむか…罪を憎む以上は、類似する事件を起こさせないためにも、一人ひとりが、“相手を思う”想像力を絶やさない様、この出来事を教訓にせねばならない。そして、更生の余地がない殺人鬼には、法による死刑でも生温いんで、どっかの研究所の“モルモット”として献体すべきであろう…自分の行いが、どれほど残虐で他人の基本的人権を踏みにじってきたことかを“体感”してもらうためにも。

教訓:守られている自覚と、日常に潜む“危険”を予知できずに傍若無人を働けば、分相応の“代償”を払うのがスジ。その理を破れば、同じ過ちは繰り返される…