迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

自分の劣等感に負けてる人ほど、他人を妬み、僻む。

10万人が国会を取り囲んで…とか言ってるけど、あと、全国で“戦争法案”反対の抗議をやってたって報じてるけど、こんな辺鄙な田舎じゃ、むしろそういう騒がしいのはやってなかったねw だって、辺鄙だからこそ、むしろそういう騒々しい事やってると、近所の高齢者が鍬持って“畑仕事手伝えや!!”と怒鳴るからだ。戦争経験のある高齢者にしたら、むしろこういう抗議活動は、自分自身をバカにしてるようにしか見えないんだよな…なんせ、本当の修羅場を知ってる人だから、平和ボケした抗議活動は、単なる近所迷惑な野外コンサート程度でしかない。むしろ、今やってる仕事を手伝って欲しいぐらいだと嘆く…当然でしょうねw 本当に勤勉な人から見たら、野党の連中がやってる事がどんだけ自分らをバカにしてるか、よくわかるからね。
何度も言うけど、安保法制の根幹は、どこまでいっても“日本を守る事”に尽きるのであって、その一環で、周辺国…特にシーレーンとか、人道支援を行っている地域における在外邦人の身の安全を確保する事と、万が一、事件に巻き込まれ、生命の危機に晒された時に自衛隊が救助に入るための法案であり、そこんトコを履き違えてギャーギャー言ってる時点で、自分の生存権基本的人権を蔑ろにしてるのと同じである。言っとくけど、自分の子供を自分の要求を通すための“人質”にしてる様な親が、自分の家族を守れるハズがないし、まして他人様の子供すら守れない…そう、いじめ問題にしろ、未成年が犯罪に巻き込まれる事案にしろ、根本は、自分が自分の身につながるすべての事柄に対して“責任”を負う事を嫌ってる以上、どんな理屈や理論も通用しない。単純な事です…“最遊記”というコミックの序盤で、様々な集落や寺院で“三蔵法師一行”という事で歓迎されるものの、その平和ボケした概念ゆえに、三蔵一派を追う妖怪に次々と襲われるシーンがある。徳の高い僧侶だからとか、自分達には害は及ばないであろうとか、そんなのは妖怪には関係ない。ある者は“不老不死”を求め、またある者は“黒幕”の計画を阻止されることを嫌って、またある者は自分自身の恨みを晴らすために…様々な理由で三蔵一派を襲う。その度に、集落は破壊され、寺院で血生くさい戦闘が起き、そして道中でも屍累々な状態になる。その度に、彼らは問う…なんのために戦うのか?その答えは、それぞれの宿業と使命によって違うモノの、共通するのは“生きるため”である。以前にも書いたが、“戦いたくない”というのであれば、なんで国会前でハンストしたり、普天間基地などの前で道路封鎖をする?これだって立派な“闘争”であり、言ってることとやってること自体が矛盾してる事になる。自分の権利を主張するために、何を犠牲にしてるかを考え、それに即した行動をやっているか、今一度考えるべきではなかろうか?
今月の“大白蓮華”で取り上げられている御書(四条金吾殿御返事…通称:八風抄)は、自分の使命や忠義を放り出して、毀誉褒貶に惑わされ、道理に反した行為をやってはならないと戒めるために指導が掲載されているのであり、メディアが作り上げた情報に惑わされ、“戦争”という言葉に騙されて騒ぐ事が、いかに“亡国の咎”となりかねないかを解き明かしているのである。私利私欲や、自分の劣等感を払拭したいあまりに他人を愚弄する事は、却って自分自身の“命の価値”を落とす事になりかねない。逆に、バカにする人が多ければ多いほど、それを見返す術はいくらでもある。そして、正当な評価を下せる人とは、他人をバカにしないどころか、自分を更に高みへと導くための“同胞”として、あるいは“好敵手”として見出し、自らも精進する。
競馬実況アナウンサーが、放送局の垣根を越えて精進し合うのは、まさに“修羅の道”に共存する者として互いを認め合ってるからこそであり、そういう人間関係を構築できない人は、ゆえに競馬実況から遠のいていく。批判する人は、その殆どがその“世界”において無知であり、自分の価値観のみで語ろうとする。しかし、自分の浅はかな世界観が、いかに他人を不愉快にしてるかを悟った時、その場にいられなくなる。それでもその業界に留まりたいなら、それに似合うだけの信頼と精進を積み重ねるしかない。そのために自分が抱える劣等感やちっぽけな自尊心を、いかに捨てられるか…それができない人ほど、他人からの評価を気にし、賞賛されると“自分の実力”と勘違いして傲慢になる。そして、真価を問われた時に怖気付き、逃げ去るのである…黎明期の競馬実況アナ達は、如何にして競馬を“博打”という排他的なレッテルを打ち破ろうとして足掻き、世間の“ギャンブル=社会悪”という勘違いを正していこうと尽力したか…そういう歴史も知らずに単純に競馬実況…否、スポーツ全般の実況アナを育成せずに視聴率ばっか求める放送局に、本物を伝える資格はない。まさに、人材育成の根幹は、その存在に適った価値を見出し、精進させる事に尽きる。そして、その険しい茨の道に、自ら志願し、耐え抜ける者だけが、本物の“名人芸”を身に付ける事が許されるのである。これは何も、芸事だけに限らず、すべてにおいて共通する事である。単に勉学に優れていても、それを社会において適合できるようカスタマイズできない者は、ゆえに最後は“落ちこぼれ”になる。例え誇れるような技術や才能がなくても、積み重ねた精進の数だけ評価はプラスされる。技能が身に付かないのは、自分自身の人生において必要がない部分だからこそであり、逆に普段は“無駄知識”でも、ひょんな事で役に立つ事だってある。それを生かすか、あるいは捨てるかは自分自身の生き様次第であり、それを他人に言われて惑わされている様では、すべて無意味になる。
本当に戦争をしたくないのであれば、何度も言うが周辺国に対して“恒久的武装解除”を求め続ける事であり、それが不可能だと悟ったなら、それに代わる手段を探せばいい…それもできずにギャーギャー騒ぎ、自分の国旗…日本人なら“日の丸”を掲げずに抗議したって、世界中から笑われるだけである。本当の意味での“闘争”とは、テロ行為を犯す事に非ず、対話を求めるのであれば、相手を同じ人間として見据え、どんなに殴られようとも傷つけられようとも、相手の心を揺さぶり続けることにある。暴力を振るったトコで、むしろ無視されるのがオチである…それゆえに中東厨二病世界遺産に指定されたパルミラ遺跡を破壊したのであり、それと同時に先人達の“敗北”が確定したと言っていい。しかし、歴史は皮肉を語る…時の勝者は必ず“敗者”となる理がある以上、彼らの行為はのちに、次の世代の者達によって破戒される事になる。遺跡を破戒して喜ぶのは、遺跡を残した側ではなく、それ以前に滅ぼされた種族であり、その亡霊に取り憑かれた者は、ゆえに自分の滅亡をも招く事になる。それが“亡者の呪い”であり、栄枯盛衰の理の一端でもある。それを断ち切りたいなら、その寸志、改めなければならない…相手されなくなって寂しいから、何もかもを破戒して道連れにしたいだけ。それを見透かし、叱ってやれるだけの知性があるなら、それを見せればいいだけ。自分の命を惜しまない覚悟があるなら、それは誰にでもできる事…砂漠に木を植える事にしろ、井戸を掘って水源を確保する事も、田畑を守って農作物を収穫する事も…全部誰かがどこかで、自分を省みずに精進し続けた結果が今に繋がる。その恩を忘れ、愚弄するなら、それゆえの報いを受けるだけ。生きるための戦いを放棄するなら、今すぐ消えろ。死なないだけの命に、なんの価値もないのだから。