迷馬の隠れ家 はてな本館

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南京大虐殺という“虚構”が“記憶”として残る理由…

今回、ユネスコの“世界記憶遺産”として、舞鶴で保管されているシベリア抑留者の記録や、東寺百合(ひゃくごう)文書が登録される事が決まったんだが、それと同時に中国が要求した、南京大虐殺に関する資料も認められてしまった。なぜ、タイトルに“虚構”としたかといえば、あくまでこの“記録”自体は中国側のモノしか残っていない事と、日本側に残ってないといけない“裏付け記録”が何一つ残っていない事、そして何よりこれ自体は、実はマスメディアが作り上げた“記憶”である事である。つまり、日本を卑しめようと企む中国にとっては都合がいい話でも、冷静に考えれば、国際的なメディアの力を借りないと、自分達の“虚構”を維持できないほど中国共産党の求心力が低下してる裏付けと見てもいいだろう。そして、その“最強の箔付け”として、ユネスコを巻き込んだ…と推測すれば、ノーベル平和賞を何が何でも憲法9条に…と叫ぶバカと同じ愚行を、常任理事国という肩書きをフルに使ってやっちまったと言っていい。但し…コレが記録として残るという事は、メディアに対する“戒め”として残したとすれば、逆に恥を掻くのは中国の方であり、こういう虚構を“真実”として信じてしまってる歴史学者や平和主義を唱える市民団体だって事になる。
“歴史の記録”というのは、モノによっては秘密にせざる得ないほど“恥ずかしい”記憶だったりする事が多く、故に“処分”して後世に“残さない”ように仕向けるモノが殆どである。しかし、こういうのに限って残っているのは、当事者自身がそういう事をしてた事すら“忘れてる”からであり、記録を残した当事者自身が“忘れて”いるのに、第三者が“発掘”して、発掘者自身の“勝手な解釈”で蒸し返すモノだから、歪な“歴史観”ってのが形成されて残る訳である。今回のケースはまさにコレであり、おそらく100年後には“どうでもいい話”として消える可能性もある。だからこそ意地になったのだと推測すれば、その“虚構記憶”が戦争の火種になり兼ねないという事である…もっとも、それを望んで中国の上層部がやってる訳であり、それで本当に日本やアメリカが武力を用いる事態となれば、その“責任”を民衆に押し付けて逃げようという下心がミエミエである。(腐った共産主義国家は、往々にしてそういうトコがある…歴史は皮肉やねぇw)
また、皮肉を込めて言えば、“史実”というのは実権者の思惑で歪曲されるのが常であり、古代史の古文書である“風土記”や“日本書紀”等の記録でも、それを編纂した人と、考古学研究で解読した人、裏付けのために発掘を行ってる人では、かなりのズレが生じる。つまり、物的証拠や痕跡を探ってる人と、文章から推測する人の意見が一致するケースの方が稀であり、検証を重ねた結果、実は“虚構”だったという事案は、歴史学をやるモンだったら日常茶飯事である。だから、文献の記録が正確かどうかは、その参考文献となっている古文書の解読一つに掛かってるトコがあり、また、伝承で集落の長老や一部の関係者以外知り得ない情報との照合が上手くいかないと、古文書自体の信憑性も怪しくなる。そして、その“裏付け資料”に関しては、時として同時代と推測される古文書や遺構を見つけ出さないと厄介な事になり兼ねない。つまり、戦争に関する記録の場合、戦勝国のみが記録を残したからといって、それが“戦争の原因”とは限らない事もある。敗戦国の記録や遺構が見つかって、初めてそこが“戦地”だった事を証明する事ができる。つまり、硫黄島での死闘というのがいかなるモノだったかを知るには、アメリカが保有する記録映像や当時の米軍兵士の証言と、旧日本軍が遺した記録資料と現地で生き残った日本軍兵士の証言が揃って、初めて“記録”として残す事ができる…70年前後の出来事に関してでも、こういった回りくどい検証を繰り返さないと解りづらいのに、況や古代史や中世史の資料となると、それこそうんざりする程の知識と読解力、そして、少ないヒントから明確な答えを探る想像力がないと、正しく理解する事は不可能である。
創価学会の“歴史学”というのは、主に、日蓮仏法に関する事と、組織としての学会の歴史を符合させる事から始まるんだが、この概念、実は殆どの歴史学に応用できる知識であり、事柄の前後に何があって、どういう事がきっかけでそうなったかを、つぶさに知り得る事ができるようになる。特に御書の研鑽において、実際の文章を読むとなると、国語の時間で学ぶ程度の古文法が理解できてないと、正直、読めないw しかし、ここでの知識を応用すると、多くの古文書(鎌倉〜江戸初期)を読み解く事ができる。これはある意味、日頃の御書学の“副産物”的な部分だが、逆を言えば、古文書に詳しい人が御書を読むと、正確に“記録を残す”事の難しさと、誇張してる部分を省いて“歴史を知る”事の厄介さを、イヤという程、体感する事になる。(学生時代に、日本史の古文書解読が得意だったんは、半分コレのせいだったりするw)故に、片方の“記録”しかないのをいい事に、好き勝手に“歴史上の実際の出来事”を誇張すれば、たとえ“真実”を語ったつもりでも、総合的な判断で“虚構”として切り捨てられる。だから、残ったっていいのです…それで後世に“恥”を掻くのは、この“虚構”を残そうとした人達であり、それを“認めた”歴史学者自身ですから。