迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“粛清”を求めるなら、まずは自分を律せよ。

なにやら、時代遅れな学生運動をやってる輩が、これまた先人が行った事をやろうとしている様である。まさに、“歴史を学んでモノは言え”である。自分の思い通りにならない理由を他人に求めれば、必然的に“粛清”という名の暴力による統制が行われるのは、想像がつきやすい。が、当事者は“過去に捉われない”という本意を履き違えてる上に、自分自身がそういう状態にある事を認知できないでいるから、必然的に繰り返される。なぜなら、先人と自分は“違う”からであり、全く“同じ”である事を、自らの意思で認めようとはしないからである。言い方を変えれば、“過去は過去”である。だが…仏法において“一念三千の理”に基づいて喝破すれば、過去に同じ様な事案があるという事は、今世、そして来世でも起こり得る可能性がある訳で、やってる人物が違えども、根幹的な部分が合致してる以上、必ず繰り返されるのである。日本の栄枯盛衰の遍歴は、中国や韓国が日本を、そして世界を出し抜こうと思えば、必ず何らかのカタチで踏襲する部分と言っていい。たとえ、国の運営方法が違えど、根幹的な部分…人間が国の命運を握ってる以上、そして他人を羨み、少しでも相手を見下そうとすれば、必然的に、相手が歩んだ道と同じ部分を辿る事になる。自分が憧れている訳でなく、ただ、相手より上の存在になろうと思えば思うほど、そういう先人たちの影を踏み、それに合わそうとしてしまうのである。
その事について、日蓮はハッキリと喝破した上で、どうあるべきかを弟子や信徒に対して指導してる訳で、また、それゆえにどんな迫害を受けようと、澄ました顔で受け流す度胸を、何度も周囲に見せつけた。なぜなら、法華経の勧持品には、“この経の教えを保とうと思えば、必ず謂われなき迫害に遭う…”という旨の記載があるからである。仮に、その“予測”が外れていれば、釈尊が説く仏法は、すべて妄語(ウソっぱち)になる訳であり、本当にそれが起きれば、殆どの信徒はその恐ろしさ故に、法華経そのものを封印し、誰もその“真実”に触れる事なく廃れていた可能性がある。故に、法然は“捨閉閣抛(しゃへいかくよう:捨てよ、閉じよ、差置け、投げ打て)”と指導し、念仏を唱える事を推奨した訳である。そこんトコを批判し、法華経に則った“正法”の広宣流布を行ったのが日蓮であり、故に念仏の概念で慣れた民衆から批判されたのである。この流れは、創価学会に対する批判と同じで、敢えて“修羅の道”を選んで民衆救済を訴える精神は“同じ”だからこそ叩かれて当然であり、もし、そんな災難が一切なく、しかも世界中に釈尊が起因となるの仏法を広める事ができたなら、法華経の勧持品が説く“諸々の災難”の予測は、それこそノストラダムスやマヤ歴などの予言以上に“妄語”という事になる。それは、仏法こそ“邪教”という証左になりかねない話であり、その“的外れな批判”を受けないのであれば、とっくの昔に消えていることになる。
つまり、恐怖政治を行ってまでも、“自分の思い通り”な世界にしたいのであれば、それ故の“他人の恨み”を買う事は恐れてはならない話であり、それができないのであれば、やがて自分自身が、自分の理念や方針によって、自らの命を絶つ事になる。過去の恐怖政治によって遂行された共産国家が、尽く行き詰まったのは、あまりにも首脳陣が自分の理念や方針に酔いしれ、下支えしてる民衆を顧みずに我侭放題やりまくったツケで、民衆からの“エエ加減にせい!!”という怒りによって倒されている…つまり、国主として頼れる存在として支持されていた事を勘違いし、まさに自分自身が神として崇め奉られていると思うあまりに、自分自身が民衆と同じ“人間”である事を忘れ、思い通りに事が進まないのは、全部自分のせいじゃないとして、当該者の首を刎ねる…それが例え自分の師匠だろうが、親友だろうが関係なくである。そういう態度を見た民衆は、その“偽りの指導者”を倒すために、あるいは、自分が迫害に遭わぬ様にと奔走する事になる。その結果、腐敗政治がまかり通り、その“粛清”を行うあまりに、完全に機能が麻痺して廃れていくのである。こうなると、誰もどうする事もできなくなる…当然だが、“偽りの指導者”自身が“撒いた種”である。なのに“他人のせい”にするあまりに、そして自分の才覚に自惚れるあまりに、袋小路に入り込んでどうにもならなくなるのである。コレ、実はシリア情勢の“正体”であり、そこに海外の様々な思惑が入り混じるから捩じ曲がるのであり、そして多くの民衆が“祖国を捨てる”という暴挙に出るのである。このままでいけば、沖縄県沖縄本島自体も、この道を辿りかねない。
つまり、自分自身が初心に立ち返り、“なんのための改革か”という部分を思い出さない限り、必ず“歴史は繰り返される”事になる。原点を忘れ、今までの功績が“自分のおかげ”と自惚れ、少しでも他人の幸福な姿が気に喰わないでいるなら、それはやがて、悪へと変わる事になる。他者を思いやり、犠牲を最小限で止めようと尽力した先人を偲び、どこまでも謙虚に、そして慢心を起こさずに精進し続ける事にこそ、誰からも愛される“指導者”としてのあるべき姿がそこにある。そして忘れてはいけないのは、民衆も指導者も、同じ“人間”である事…民意とは、双方の意見が対等、かつ、平等なモノだからこそ、その判断を多数決にするか、あるいは主権者自身に委ねるかで決める事であって、一方的な感情でどうこうできるモノではない。そこを履き違えて政府批判や、“実力行使”というなの暴力を振るうのであれば、そのツケは必ず主導者自身に降りかかる。まぁ…学生なら就職活動で苦労する事になるだろうし、社会人であれば、その抗議活動を理由に仕事をサボったツケとして、会社から懲戒解雇を喰らうだろう。もし、そんな目に遭わなかったとしても、自分の理想と現実の狭間で精神が病む事になるだろう。だからこそ、自分を律する事もできずに他人を叩くのであれば、その報い、必ずどこかで受ける事を覚悟しなさい。