迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

子供の“自殺”が相次ぐ理由…

たった一言で言えば、“自覚がない”ことが全てです。虐められる側にとって、虐める側自身だけでなく、親や兄弟、そして自分に関わるもの全てが“怨敵”であり、“裏切り者”だからです。“休日の約束”を簡単に破り、信じていたこと全てが“虚構”だったり…やった側にとっては些細なことでも、やられた側には“重大な問題”なのです。そして何より、ケータイの普及で居場所が特定できるのにもかかわらず、通話やメール“だけ”で安否確認をしてしまうから、自殺を止められないのです。今の10代は、頭の回転が良く、そして何より“他者に迷惑をかけない”あるいは、“誰にも知られない”ようにするために、巧みに嘘をつきます。それを見破るには、常に監視してること以上に、“現場に出向く”という一手間を待っていることに気づくことです。もっと言えば、思春期のガキにとって、一番欲しいものは、正しく“叱ってくれる存在”です。無自覚なモノほど、一番恐ろしいモノはないですよ。いやマジで。
叱って欲しいと思う反面、しつこく付き纏われる事も嫌う世代であるからこそ、顔見知りが声をかけるだけでなく、関わりのない他人であっても、“ちゃんと見てるよ”という合図を発信し続ける事にこそ、本当の抑止力になるのです。これ、一番わかりやすく言えば、尾崎豊の楽曲…しかも10代の頃にリリースした名曲の中に、一番のヒントが隠れています。そのヒントが、歌詞のドコに隠れているかは、実際の楽曲を聴いてもらって個々で探してもらうとして、肝心なのは、今の若年層は、戦争という“血の大祭”がないが故に、生き急いでると言っていいでしょう。言い方を変えれば、“自分の居場所”そのものがないのです。戦争に限らず、ディストピア系ダークファンタジーがヒットする時、それは自分の心の中にある闇と葛藤する主人公に、エンドユーザーであるティーンエイジア自身が、自分自身の姿を投影し憧れたり、現実から逃避したいと願うのです…自分が置かれた環境よりも物語の中の世界観の方が良いと。それは何を求めてるかといえば、“変革”を求めてるのです。自分が変わるのではなく、世間が“自分好み”の世界へと変貌する事を願うあまり、そのギャップに耐えられないのです。それが一番の根幹にある“心の闇”の一端です。“一端”と表現したのは、他に様々な要因があって“心の闇”は形成されるモノであり、コレがある意味明後日な方へ向くと、所謂“厨二病”となる訳で、健全な人なら、一過的なモノであるから気にする必要はない“通過儀礼”ですw しかし…問題なのは“厨二病”になる方ではなく、その反対にある“生真面目”な性格の子たちです。“生真面目”であるがために、却って本当の“優しさ”や“優等生”という価値観を履き違え、そして必要以上に精神を追い詰めてしまうのです。“優能”でなければ“褒めてもらえない”とか、世間に対して“粗相”をやってはいけないとか、親や知り合いに“迷惑をかけたくない”とか…それが“どれだけ迷惑か”という事すらわからないから、そして、自分の事は自分で全てやらねばならないと思い詰めるからこそ、手助けしようとする他人が鬱陶しくなるのです。もっと言えば、どんな親友も、家族も、当事者自身は疑心暗鬼な状態ですから、信用してないんですよね、これ。
ここで、さっき言った“自覚がない”という事の本意に入るきっかけができた訳で、本当に我が子を思うのであれば、時として親子間での“喧嘩”も必要なんです。互いが傷つく事、痛みを知る事で、初めて本当の意味での絆というモノが築かれるのであって、双方が傷つかずに済むのは、実は一番の“間違い”なんです。名古屋で起きた件に関して言えば、部活において、自分の存在が“部全体の足を引っ張っている”という錯覚から来てると推測できます。体育会系の部活は、高い目標設定に向かって挑戦する事が必須なトコがあり、特に全国大会に直結するような種目の部活の場合、それこそ大会成績の優秀な者だけが讃えられ、そうじゃない者は“邪魔者”扱いされ、自然に淘汰されていきます。当事者がどんなに頑張っても、周囲がそれを認めずに、しかも成績“だけ”で優劣を決めていけば、必然的に“居場所”がなくなる訳であり、他の趣味や才能があるならともかく、そうじゃない人は、そこで“詰んで”しまう訳です。オイラの経験で言えば、中学の時は、最初は水泳部にいたけど、年がら年中プールで泳げないし、基礎トレーニングの段階で面白くなかった事もあって、半年で退部した後、音楽の教師から声が通る事を理由にコーラス部へ鞍替えし、高校の時は卓球部に入ったものの、部員が誰もいなくてそのまま廃部(?!)という憂き目に遭いましたw 真剣にやっていたら、おそらく名古屋の子と同じような事になってたかもしれませんが、今のオイラがあるのは、そういう“チャランポラン”な性格だったからこそだと、今となっては思うのです。
脱線ついでに言えば、思春期のガキはバイクでの暴走に憧れるフシがあり、真夜中に爆音たてて走る事が、一つの快感に思える訳で、ゆえにバイク免許を取得したら、真っ先に原チャリのマフラー等を弄って、爆音でエンジンを吹かす訳です。クルマの免許でも、わざわざMTの免許を取得しようと考える人は、大概の場合、無茶なドリフトや急発進等をやりたがる訳で、ATで粋がる場合は、電飾や大音量スピーカー等、別の部分で目立とうとします。けど、まぁ…そういう事をやってるバカに限って、警察の世話になったとしても一つの“勲章”みたいなモンだと開き直ってるんで、刑罰が意味を成してなかったりするんだが、生真面目人間は思考がどうしても明後日に向きがちなんで、ちょっとした道交法違反(5km/hの速度超過)でも、死にたくなるほど落ち込みますw (人身事故で免許取消喰らうよりマシな事なのに…)ぶっちゃけると、“いい子”でいようとするからこそ、“他人に叱られたくない”と思うからこそ、そして何より“迷惑かけたくない”と思うからこそ、他人からすれば“どうでもいい事”で自殺を考えたくなる訳です。何度も言います、“生真面目”な性格だったからこそ、“どうでもいい事”で躓いて死にたくなるのです。そこを修正させたいなら、時として、自分の子や孫の頬を殴る事も厭わない度胸が必要となるのです。もちろん、日頃から虐待めいた躾をやれという訳ではありません。ちょっとでも隠し事があって、不審な動きを見せたと思ったら、躊躇せずに現場へ駆けつけ、大声で怒鳴りながら一発…あくまでもボコボコにする必要はありません、殴った後ですぐに抱きしめてやればいいのです。本当の意味で“叱る”とは、相手ではなく、自分自身への“戒め”です。だからこそ、躊躇せずに頬を一発だけ、叩けばいいのです。但し、絶対条件は“素手でやる”事です。木刀や角材、鞭で叩くのは反則であると同時に、叩いた“反動”が手に残るからこそ、“相手の痛みを知る”事ができるのです。連続グーパンとかは、もってのほかですw あくまで平手打ちで、且つ、一発だけです。どんな説得の言葉よりも、これが一番効くのです。(あくまで、日頃から暴力で物事を解決させようと強引な事をしてる人以外の話ですw)日頃、言葉で諭そうとする人がやるからこそ、意味があるのです。
“居場所がない”からこそ、どっかで紛争を起こして、そこに行こうとする国際厨二病がわんさか沸く訳であり、それを利用してる大国が、紛争地域での“問題”をさらに拗らせているのであれば、敢えて“鬼”になる事も必要なんです。本当に平和を望むのであれば、そして、生きる価値観そのものを、自分の手で作り上げていく事が“変革”の本質だと教えるためにはねw その概念は子育てでも同じなんです。親である以上、子供達を本気で守り、次世代の“大人”として育て上げる事が“使命”ですから。