迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

同性愛?大いに結構じゃないかw

いろいろとニュースになっているLGBT。しかしまぁ…無理解は本当に辛いよね。同性愛者ってのは、そもそも精神的な部分も含めて、いろいろ問題を抱えてる反面、基本的な事を言えば、自分の性欲の方向性が“他の人と違う”ってだけであって、異常でもなんでもない。むしろ、異性と性行為(繁殖行動)をする事を“正常”とする考えの方が間違ってるのであって、幼少期の体験や感情の発達における経緯によって、そうなる人もいるだけの話である。つまり、昔の戦国武将にしても、単なる妾(=女性の慰安婦)だけじゃ物足りない性欲旺盛な人は、結構ゲイだったりする訳で、美形の少年兵や青年武官を側近に据えるのは、実は“夜のお楽しみ要員”としての側面もあったという。また、アメリカの開拓史においてでも、男性ばっかの旅団で奥地に先駆する事がザラだったこともあり、どうしても、そっち方向の欲求不満が溜まるモンだから、そういう事が出来る同性に求めることもあった様である。要するに、若気の至りでそっちの世界に入っちゃう様な状況が揃えばそうなるだけで、そうでなくても異性に関心がなかったり、同性に対して激しい感情をむき出しになるのは、それだけ戦乱という非常事態になっていない証左でもある。
言っちゃなんだが、ミジンコやカタツムリ等の小型生物の繁殖は、ある意味“細胞分裂”に近いカタチでの繁殖であり、多くの個体は生物学上“メス”として分類される。また、ミツバチやスズメバチの生態においても、野外で餌の捕獲や収集、巣箱内での作業などに従事する“働き蜂”は、すべて“メス”であって、“オス”の個体が見つかるのは、よほどの緊急事態で“種の滅亡”の危機が差し迫った状況か、巣の中で女王蜂のそばでボーっとしてるかである。アリの仲間も、ほぼハチと同じような生態系のため、“オス”の個体が見つかるケースは、ほとんどない。つまり、生物の世界において、LGBTであってもそれ自体は“無問題”なことであって、それを殊更“異常だ”と言ってる時点で“生物学舐めとんか?”である。生殖機能ってのは、生物における進化の過程において、“確実なる種の確保”を可能にするための選択肢の一つであり、そのために、わざわざ危険を冒してまでも異性との接触による“遺伝子の組み替え”を繰り返した方が、確実に未来まで“生き残れる”というデータがあるからそうなっただけで、他の生物が、同じような選択をしてる以上、“生産過多”になる危険もある。だからこそ、その調整を行う“選択肢”が、たまたま作動したまでにすぎないのであって、異常でもなんでもなく、自然界の理の一部である。言い方を変えれば、ウサギやリスなどの齧歯類の“オス”が性欲旺盛なのは、小さい躯体ゆえにそのままだと生存率が低いが、限られた時間内で、多くの“メス”と接触して、できるだけ多くの“自身の存在”を残そうとしたからであって、また、ネコやイヌが“子沢山”なのも、生存率アップのための戦略である。同じ理屈として魚介類の産卵も、非常に大量に行うが、それが次の繁殖に適合する個体になる確率は、年末ジャンボ宝くじの1等を当てるより酷しい。しかし…人間はどうだろう?
貧困な国々には、裕福な国に比べて娯楽が少ない。もっと言えば、外の世界を知りたくても、他の娯楽に興じたくても、手元が限られている。ゆえに、冠婚葬祭も一つの“娯楽”であり、大人として認めてもらうための儀式も、それに似合うだけの体力や知能があるかどうかの腕試しであり、それに勝ち得た者だけが、晴れて“集落内での大人”として結婚や様々な役職を得ることができた。また、宗教において、信徒が真っ当な人生を送れるようにアドバイスとして哲学を説くのは、立場上“人外の者”として様々な人生のあり方を見据え、それを信徒に選択させてるのである。だから、宗派によって、また歴史によって、その教えの中身は変化してる訳で、イスラム教の原理主義を唱える人がよく引っかかる“改宗をしないものを殺すことは正しい”という概念も、実は、布教時に言語が通じない相手に対する防護策でしかない…つまり、どんなに自分の言い分を聞いて欲しくても、向こうが勝手に暴力を振るった場合にのみ、それを懲らしめるための方便でしかない。これ、法華経の勧持品でもそうなんだが、一切の人を敬うことを誓った不軽菩薩に対し、謂われなき迫害は必然的に発生し、それゆえに法華経そのものを受持し続けることは難しいと説かれている訳で、その“対応策”として専守防衛に限った“暴力”を認めたんが、時代を経るごとに誤解を招き、現代に至ってると言っていい。言っとくけど、不軽菩薩は自分から手を挙げず、どんな暴行に対しても、寸でのトコで受け流し、相手を見据えて礼をしたという伝説があるから、おそらくはそれ故に相手が気怖じするほど変態(てか、ドン引きするほどのドM)だったと思われるw しかし、その強い信念と勇気がある人をバカにし、暴行をふるった者はどうなったか?結局は自分で不可解なことを理由に、不気味がって暴行に及んだのであり、そういう自分の弱さに気付き、諭そうとした人をブン殴った訳だから、第三者から“ビビリ”と批判されたのは言うまでもない。まぁ…自分が今までの経験で得た“常識”から外れたことをやってる連中を“変態”と称してバカにする気持ちはわからんでもないが、それは、ひっくり返れば自分の“狭い境涯”に満足してしまって、たとえ自分自身のためとして新しい概念や第三者目線で見た“おかしな部分”の指摘に対し、素直な気持ちになれない…てか、自分の存在すら否定したと勘違いするから、話がズレるのである。
つまり、LGBTを批判するって事は、自分自身が、そういう存在を“羨ましい”から批判する訳ですw 正直に言えば、女性同士であっても、日帰り入浴施設で同性の裸体を見て“キモい”と思うこともあれば、二次元におけるBL系の話をリアルでやられるとツッコミ入れたくなるし、だけどそこに自分がいたとしたらどう思うかは別の話で、エロな話をすれば、それはそれでアリです。冗談抜きでw だって、オイラ的願望を言えば…っと、ここでは明かしませんけどねw