迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

サッカー日韓戦で一番言えること…

昨日の夜中にやってたリオ五輪予選も兼ねたU-23アジア選手権決勝、結果に関しては3-2で、日本が逆転勝ちを収め、いろんな意味で“大団円”となった…が、毎回日韓戦となると、試合前から政治的な発言で挑発するのが“お約束”になりつつある韓国の態度。ある意味“しゃーねぇなw”って感がする。一番の理由が、日本に対して“差別発言すんな!!”と言いながら、自らの行為に対して“日本に対する侮辱は当然”という概念が様々なトコで蔓延ってる反面、それがなければ“何もできない”という精神的な甘えが潜在的にあるように思える。当然そこは、日本人の“在日差別”にもある部分だし、だけどそれを露骨にやるかどうかは“自分次第”なトコがある。もっと言えば、多くの大衆に対して“訴える”ことを選ぶのが韓国人なら、それを“恥”とするのが日本人の違いであり、虚偽・ハッタリだろうが本音・真実だろうが、はっきりと言っていく姿勢は日本の外交や国際交流の部分では韓国に見習うべきであり、逆に韓国も日本の時と場合による“使い分け”の概念を身につけなければ不利を受けることになる。現に、国連の潘基文事務総長がイスラエルに対し、パレスチナに対する弾圧をやめるように呼びかけても、イスラエルのネタニアフ首相はテロ撲滅のためにもパレスチアこそ滅ぼすべきだと反発した訳だが、言ってる事を日韓関係に置き換えれば、そういうことである。逆転の発想で言えば、仮に言ってることが“正しい”のであれば、その結果による“弊害”は、新たな差別を誘発することになりかねない。つまり、世界中の“民族差別”の根幹と同じで、民族的な正当性を求めるあまりに、異文化や他者との共存を否定したことで、本来であれば学べるハズの歴史の“正当性”や文化の進化を阻害し、“常識”そのものに歪みが起きて、相手が同じ人間であっても、どっかで見下すことになる。日本人によくある、他県人に対する嫌悪感と全く“仕組み”は一緒。異文化であるからこそ、その違いを認めた上で、双方向での理解と研鑽をすることで、共存は可能なのに、それができないのは、心のどこかで相手のしぐさや風習が“おかしい”と思うあまりに、それを自分が思う“常識”に正そうとするからである。
日蓮仏法の基本に、“摂受折伏時に依る”という概念がある。“摂受”とは相手の意見を受け入れながら自分の意見を示す術であり、“折伏”は相手の意見に対して批判をしながら自分の意見を質す意味がある。“折伏”という言葉に対して暴力的に感じる人も多いだろうが、実際の意味としては“相手を思って叱る”という部分であり、“摂受”の“自分のために相手に従う”とは別の意味の、信頼関係構築の一環である。“相手を思う”という部分では同じでも、責任問題をなすりつけ合うか、自分が犠牲になることを厭わないかの差が“摂受”と“折伏”にはある。自分に対して責任を感じるからこそ“叱る”のであって、単に自分の思い通りにならないことを相手のせいにするのは“我侭”でしかない。ヘイトスピーチの大半は、自分の思い通りにならないことを他人のせいにする無責任な発言であり、相手が反発することが自分から見て“滑稽”だからこそ余計にやる部分がある。が、その罵りに対して、自分自身が襟を正し、第三者から見てその“発言”が分相応なモノであるかどうかを確かめ、戒めにできるのであれば、どうってことはない。むしろそういう発言しかできない相手を、いろんな意味で哀れむことだってできる。
オイラ的に言えば、何でもかんでも罵ることでしかモチベーションが上げられないのは、双方にとって不幸だとしか思えないし、溜め込んだ憂さを、こういうカタチでしか発散できないのは、何の問題解決にも至らないと思う。本気で“相手を想う”という行為は難しいことであり、そして、自分にとって最善の策をやっても、それを否定する者がいる限りは、何らかの犠牲が出るのは仕方ない。もっと言えば、相手を“信じる”ことができないからこそバカにする訳であり、それは自分自身をバカにしてることだと気付かないから、余計に苦しむ訳である。相手の容姿から“ブサイク”とか“キモい”とか簡単に罵るのはいいが、ひっくり返れば、自分の醜い心が目の前に映ってるからこそ、そういう風に言ってる可能性がある…自分を戒められる人ほど、悪口を人前では言わない。それどころか、罵詈雑言を哀れむ。そういうカタチでなければ、“相手”にされないという自らの弱さ、小ささを嘆いてるとしか思えないからだ。
サッカーの話に戻せば、韓国は前半で“勝負ついた”と油断し、日本は“必ず勝利する”という確信を持って後半に挑んだからこその話であり、本気で韓国が“日本を潰したい”という意思が最後まで貫き通せたなら、こんな惨めな負け方はしなかっただろうし、勝っても別の意味で“惨め”でしかなかっただろう。先に書いたとおり、自分の思い通りになることこそが“正義”である以上、自惚れた挙句、堕落するのは目に見える話。負けて“賊軍”として罵られるのが怖いからこその強がりなら、尚の話。だから日本に“負ける”ことを嫌って審判やスタジアム、FIFAのせいにして文句垂れるなら、どんな勝負事に対しても、同じ文句を、自分の戒めとして垂れなきゃいけない…“勝てたのは自分の実力ではなく、他の様々な要因によって導かれたこと”だとw