迷馬の隠れ家 はてな本館

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通信制の学校が叩かれる背景とは?

今、ニコニコ動画を展開してるKADOKAWAドワンゴが、まったく新しい通信制高校“N高校”を開設し、今年だけでもおよそ1500人が、栄えある“第1期生”として入学した。もちろん、必要単位を取得し、年5回のスクーリング(面談などのための通学)を行えば、高卒資格を取得できることと、一部ガチで東大を目指す人専用に、専用の寄宿舎&校舎を用意してるとのことだが、ニュースの内容を精査せずに、SNS上では批判の声が飛んでいる。特に多いのが、“通信制の高校卒業しても、ウチの会社じゃ雇わないし認めない”というウエメセな会社役員と思われる意見と、“時間も守れない様な人間なんぞ、まともなヤツはいない”と嘲笑うインテリ系の意見だ。だが、そういう人ほど、本音は“羨ましい”のだと思う…なぜなら、普通の学校に行ってて、逃げ出したいほどイヤな思いを経験した上、不登校や自分の都合による退学は“甘えだ”と考えるバカのせいで、高校以降は学生の意思によって選択肢を変更することが可能であるということを“否定”されたからである。オイラも経験上そういうことはよくわかるが、高校や大学を中退する人は、多くの場合は学費が生活費を逼迫してるという経済的な事情だが、もう一つ、校内でのパワハラや成績カーストに拠る差別からのいじめによって、本来ならば学べる授業もまともに受けられないほど精神的、さらには肉体的に追い詰められたことを理由に、就学を諦める人もいるということも忘れてはいけない。もっと言えば、自分が望んだ環境と違うことが入学後に発覚し、あるいは、自分自身の頭脳の良さが、並大抵の高校や大学じゃ活かしきれないという自惚れもあるが、どんな“優等生学校”であっても、校内における人間関係が拗れると、劣等感を感じる者は、勉強が好きでも学校に居辛くなり、やがて不登校からの退学という、不本意ドロップアウトを余儀なくされるのである。オイラみたいに、いじめられることに対する耐性があって、ぼっちでもどうにかなる様な性格ならともかく、そうじゃない人間が、どんだけ学校生活…特に人間関係において、親や教師に言えない様な辛辣で過酷な扱いを同級生から受ければ、誰だって自殺や退学を考えますよ、冗談抜きで。
不登校や中退を経験したことある人間なら、できれば経済的な負担が軽く、人間関係に悩まされず、自分の学びたい分野に集中できる環境があれば、もう一度復学したいと考える人も少なくないと思う。まして、大学で、いわゆる“学生運動”に巻き込まれた挙句、必要単位の取得が叶わずに中退した勉強好きな人間なら、もう一度チャンスが欲しいと願うのは当然の話。そのための教育機関として、既存では放送大学NHK学園というのがメジャーなトコだろうし、放送大学での受講(テレビ・ラジオ・Web)は、キチンと“学科単位”として認められているため、サテライト校(大概は国立大附属高校などの校舎)でのスクーリングを行えば、事実上“大学生”として認められる。つまり、文科省認可の正式な学校なのであり、通信制だからといっても、やってる講義内容などは、一流大学のモノと差し障りがない。むしろ、下手な私学の大学行くよりも、よっぽど高度な講義を受けることができる。(そりゃ、京大や東大などの一流の教授陣が、挙って教鞭振るってると知ったら、もうね…w)もちろん、どっかの胡散臭い高校みたいに、とてもじゃないが“まともな授業”とは言えないモノをやってるトコもあるのも事実として存在するが、高校や大学で学ぶことは、いろんな意味で“ヲタク道”であるw それが社会で役に立つかどうかは、そこで学んだ学生自身の匙加減であり、また、就労の場合は、雇い主や人事の人材育成にかかってる。言い方を変えれば、今の日本の企業は、根幹的な“人材育成”を業績悪化などの金銭的な事情を理由に廃したことによって、余計にボロボロなのである。そう、人材育成よりも“即戦力”を求め過ぎて、しかも請け負ってる分野に似合わない様な学歴を求めるあまりに、使いこなせていないのが実情としてある。本気で“即戦力”を求めるなら、普通科高卒や大卒を求めるよりも、専門技術を就学する工業科や商業科高卒や、高等専門学校卒をガンガン雇うべきであり、インテリぶる様な輩を雇ってはいけない。むしろ、一流大学卒よりも、胡散臭い大学卒の方が勤勉だったりすることが多いのだから、学歴よりも“扱いやすい人材”を選んだ方が、将来的には明るいと思うのだが…
閑話休題、学校の価値を決めるのは、あくまで精進・鍛錬を怠らずに、社会に実証を示し続ける学生の態度であり、それをキチンと指導するのが学校の教育者自身の務めである。そこさえキチンとやってたら、どんな“ふざけた授業”を行ったとしても、“人の道”を外れることはない。もっと言えば、授業内容なんてのは、正直、ドコの学校だろうが“同じ”である。だからこそ肝心なのは、感情論のみで批判するよりも、まずは“本気で学びを欲する落第生”を、どうやって救済し、社会人として通用する人材に育成できるかの“可能性”を見出せるかどうかを試すべきである。あくまでこれは“社会実験”であり、被験者はそこに集う“学生”ではなく、我々自身だという自覚を持つことが、この学校の本文ではなかろうか?そういう意味では、この学生たちを温かく見守り、育んでこそ、通信制学校の存在意義となるのではなかろうか。