迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“貧困”をバカにしてるのは、むしろ“金持ち”かもしんないw

NHKが取り上げた、貧困の女子高生…要は、専修学校や大学への進学を諦めた高校生をドキュメントで紹介しようとしたが、一部視聴者から、ペンタブや同人誌の山を見て炎上してる問題…これは完全に、現状の“24時間テレビ”同様に、貧困や心身にハンデある事を“哀れな存在”として取り扱ったミスリードであり、身障者であってもパラリンピック出場選手クラスになると、健常者以上に身体能力が優れてる人もいるし、貧困だからといってもそれが“不幸”とは限らない。むしろ金銭的に“貧困”であっても、ユーモアや人脈、情報網や知識、宗教的倫理観や経験などが貧弱な人の方が皆無であって、それを勘違いしてる方がむしろ“不幸”である。どんなハンデも、それは人格形成や人生訓を学ぶ上での一つの“物差し”に過ぎず、それを生かすかどうかは人それぞれである…むしろ、学歴や金銭面、過去の栄光に縋ってる方がみっともないのであり、それを隠すために、自分よりも“格下”だと思う相手を叩くのであれば、これほど無責任で、かつ、不勉強甚だしい話はない。
そもそも、潤沢な資金と豊富な人脈、様々な知識を使いこなせる人なんて、この世には一人も存在しない…必ず、どこかで誰かに迷惑を掛け、世話になり、支え合ってきたからこそ今日があるのであって、一人でそれを全て解決させられる能力と資金、知恵と工夫があったなら、無益な戦争や何度も繰り返す栄枯盛衰なんてのは起こりやしないし、そもそも人間という存在すら、地球上に要らないw 人間が地球上にいること、もっと言えば先天的なハンデを持つ生命体がいくつも生存できるのは、気候変動や様々な条件に適う生命の“可能性”を見出すための多様性であり、ダーウィンの進化論とて、ガラパゴス諸島におけるリクガメやイグアナの“多様性”から推測され導き出された、一つの結論である。それは、チェルノブイリ原発周辺に生息する放射線を糧とする菌類の存在が証明してる話であり、放射線被曝をも生命活動の糧にしてる時点で、そういう環境下でも“生命体として存在できる”進化の過程とも言えるのであり、また、現在のように大気の層によって宇宙線被爆から保護される以前の地球上では、そういうヤツ以外は生存する価値すらなかった事を意味する。それらはあくまで“可能性”の話の域から出なくても、生物学や理化学の世界では十分な話である。
しかし、人間ってのは残念なことに、自分の“正義論”に一度でも酔い痴れると、それ以外の概念や世界観の違いなど無視し、それすら否定する様になる。もっと言えば、“愛国正義”の名の下に、自分の家族や親類縁者の存在すら無視して自己の正義を掲げ、法律や条例まで無視してバカげた行動をも正当化し、それに歯向かうものを“怨敵”とみなして暴挙に出る…その“相手”が親であろうが、友人だろうが、師匠だろうが関係ない。自分以外の存在が“敵”なのであり、排除対象なのである。当然だが、それは共産主義を“正義”とする概念に心酔した自称インテリも然りで、他人から見れば完全なる“厨二病”であるw メディアが叩くキモヲタよりも、さらにキモくてタチの悪い存在だ。
SNSの発達ってのは、良くも悪くも“他人叩き”のツールでしかない。自分よりも“相手”の方が“劣ってる”と思いたいあまりに、自分の方がどんな者よりも“優れてる”と思いたいあまりに、ついつい不特定多数の“他人”を、ありとあらゆる手段で叩きたい、傷つけたいのである…が、オイラはそういう人々を哀れに思えて仕方ない。そういうことやってる暇があるなら、自分が生まれ持って備えている才能を発掘し、精進していけばいいモノを、なんで無駄にするのかなと。特に、自分が立ち上げた会社を乗っ取られた挙句、刑務所に放り込まれたアホの意見に、時々辟易する…全然成長してないどころか、なんの反省も、後悔も、そして他人に対してどれだけ迷惑かけたかすら理解できてない時点で、あんな目に遭ったのか、お察しである。もちろん、過去の罪や後悔をいつまでも引き摺る事は、自分の“不幸”に酔ってるだけのアホだが、それ以上に、自分自身が周囲から持て囃されている事を良い事に、自分をここまで育て上げた親や周囲の大人をバカにするのは、自分自身をバカにしてるのと同じだという事に気付かないといけない。ネグレクト(育児放棄)や虐待経験があるならともかく、一流大学まで進学させるために、本来であれば自分で自由にできる資産を、惜しみなくつぎ込んでくれたのは自分の親じゃないか?自分自身の我儘のために、その尻拭いをやってきたのは、いつだって親だ。その親を見下した時点で、それは自分自身が大人としての自覚を持ってない愚か者だと公言してるのと一緒だ…心でそう思っていなくても、言葉としてそう発言した以上、他人から“親不孝者”と思われても、一切文句を言えた立場じゃない。もし、文句を言うなら過去の自分に対して言ってみな…一番傷つくのは、自分自身だ。
どんなに裕福でも、心が死んでたら“幸福”とは言えない。人が羨む様な資産があって、生活に困らないほど便利な環境下であっても、心が退屈したり、虚しさだけしかないのであれば、それこそ“貧困”であり“不幸”である。御金言“蔵の財より(中略)心の財第一なり”とは、まさにこの事を指す。自分の心が幸福感で満たされているのであれば、他人から見てどんなに不幸の連続な人生であっても、一片の悔いもなければ“不幸”という概念すら盆休み取っていなくなるw 逆に他人が羨む様な“見た目だけの幸福”に囲まれてても、自分自身が窮屈だ、あるいは居場所を見出だせなければ“不幸”であり虚しいだけだ。修羅の道でもささやかな幸福は、人生最大の糧として己を鍛え成長する。寧楽な生活もささやかな不幸は、人生そのものが崩壊するほどの衝撃となって自滅を呼ぶ。
今回の件で言える事は、自らの不幸を“他人のせい”にし、その救済案を他人に求めてるから叩かれるのであり、本当に金銭的に苦労してるのであれば、何もデジタルな機器や富裕層の支持を求める必要なんてない。同人作家(イラストレーター)を名乗るのであれば、最初は紙と筆記用具…それも不要になったメモ帳の裏や鉛筆だけで、絵に関する基本的な技術を磨けば良いだけの話であり、コミケに参加してる大御所サークルの古株作家は、殆どがそうやって自分の技術を磨いた上で、WACOMのペンタブとadobe等が出してるグラフィックソフトを使ってる。そんなことも知らずにPCでイラスト作成ができない事を“不幸”というのであれば、勘違いも甚だしい。物理的、資源的に貧困でも、自分が本気ならばいくらでも鍛錬は積めるし、技術向上を図ることも可能だし、そういう作品は、必ずどこかで正当なカタチで評価され、後世において語り継がれる“名作家”に化ける。それを少しでも怠るなら、どんな大御所といえど、過去の作品の評価に縋るあまりに、他の名作と言われたモノまでも、その価値を下げる結果になる。日々の鍛錬は嘘をつかない…一見無駄な努力でも、意外なカタチで花開く時、その真価は不動のモノとなる。