迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

いじめやる人は、それしかできないw

タイトル通りですw いかなる思想や理念も、批判は簡単だが、それを実践し結果を残せた人をバカにしたツケは、必ずどこかで“清算”せんにゃならん。それが“因果応報の理”であり、何人たりともその哲理から逃れることなんてできない…もし、それができる様であれば、とっくの昔に地球から生命そのものが消え去ってるw だって、“始まり”がないなら“終わり”もない訳だから、当然ながら、そういった理すら生じない。
そもそも、人の功績を批判する人にとって、何に不満を持ってるかと言えば、自分自身が評価されないことについて、その理屈や意味がわかってないことが全てになる。言い方変えれば、その価値がきちんと反映されていないと勘違いしてるから、いつまで経っても“他人”が褒められているのが“気に喰わない”ってなる。その究極の姿が、学校教育現場における歪みであり、子育て世代の“勘違い’である。つまり、運動会における“全員一等賞”という茶番や、学芸会での“全員主役”という脚本も、表面上では“価値の均一化”ができても、個々での価値観に依ったら、それが“一番の不服”なのである…自分の子供が、あるいは自分自身が“最高”であると思うからこその矛盾だ。だが、そもそも、こういった“単一価値観”を求めたのは誰なのか…そこんトコを踏まえないと、この問題は解決できない。もっと言えば、“単一の価値観”だからこそ、そこからはみ出た者や、元々そういうことに囚われない性格の者は、格好の“いじめ”の標的になる訳であり、それ故のドロップアウトが生じる訳である。要するに、“規格外”だからこそ、勝手に“社会”から排除された訳であり、それを嫌うあまりに、“規格”の単一化を図って、それに合わそうとするのが“社会の是”となってしまってるから故の話である。もちろん、そうあるべきトコもある訳だが、だからと言って全ての価値観を“単一化”することほど、実は恐ろしく、且つ、人間性を奪い取る一凶である訳で、本当の意味での“個性”を育むには、“他人と違ってもいい”という部分と、“同じでなければならない”部分の“振り分け”ができてないと意味がない。だが、教育現場にしろ、社会そのものにしろ、そういった“個々のカスタマイズ”が伴う“人材育成”ってのがマンドクセになってる訳であり、そういう事情から子供達への“価値観の押し売り”ってのがまかり通る様になる訳であり、そういう条件下で子育てをやれば、当然ながら、そういう“歪んだ人格”の人材しか、社会にはいなくなる…そう、自分のことを“認めて欲しい”あまりに周囲の“異端”を排除した結果、肝心な部分での評価自体が“無意味”になり、結果全員が“没個性”になる訳である。
個々によって、できること、できないことが違ってて“当たり前”なのに、それを“否定”してる以上、どんなに仕事に、あるいは勉学に勤しんだとしても、評価されないどころか、バカにされた挙句、“いらない子”扱いされたら、どんなにメンタル面がタフな人でも自殺を考えざる得ないレベルで凹む…そんな様子を“傍観者”として見下し、笑い飛ばしたいから侮蔑を行なってるなら、それは相当精神が病んでる証拠であり、自分の評価が低いのは“全て他人のせい”にしてる時点で、感情が“死んでいる”のである。“自分の居場所”を若い世代や余所者に“奪われる”という勘違い…自意識過剰な人ほどわかっちゃいないのは、その“自分の居場所”を“奪われている”人々まで攻撃してまで欲張った結果が、後継者不足とか技術力低下といった弊害であり、“自分基準”で社会が成り立っている自惚れが、結果として社会の疲弊や衰亡を招いてるのである。批判されてる人々をよく見ると、批判されて当然な人と、そうじゃない人がごっちゃになってることが多い。これも、大概はメディアの印象操作を疑った方が早いんだが、前者は“裸の王様”であり、後者はそのカリスマ性に引き寄せられた人の“勝手論”だったりすることが多い。つまり、自分に自惚れて周囲に迷惑をかけてることに気付かないバカか、自分が支配する“組織”のために“人柱”として犠牲になってるかの差であり、組織がデカくなればなるほど前者になりやすい。カリスマ性のある人物ほど、自分を犠牲にしてまで組織のため、社会のために尽力するが、そこの部分“だけ”を評価してると、いつしか“化けの皮”が剥がれて“本性”を表す…そうならないために、“本物の指導者”ってのは、配下の民や直属の部下を褒め称える。そのやり方は組織の“環境”によって様々でも、支配下の人々は“指導者に褒められた”という一点のみで喜ぶ訳である。僻みを言う人々は、そこんトコをツッコむ訳であり、物事を“正しく”判断することができない。だから、単なる鉄ヲタの意見ですら批判するし、将来の夢を語る若き技術者を見下す訳である…その“どこ”にも“自分の居場所”がないから奪うのである。
“自分の居場所”がない人ほど、他人の“楽園”が気に喰わない訳であり、んで、破壊の限りに暴れた挙句、奪い取っても、そのあとの“報復”が怖いあまり、その後の計画や理想像を具現化することが“できない”のである。だって、自分の理想を他人に“破壊されたくない”からねw 自分が他人に対してやっときながら、それはないでしょw それこそ“因果応報の理”を無視したツケとして、誰かが犠牲にならざる得ない事態に陥る一凶である。今の日本がグダグダなのは、そういう“ツケ”の果てである。同じ理屈はアメリカの大統領選での醜態であり、候補者自身が民主主義を“否定”した時点で、それは社会組織としてのアメリカの“終焉”を意味してると思わざる得ない。その“崩落”が怖いから、中国や韓国は民衆を洗脳して“都合のいい存在”に教育現場で作り変えた…そのツケは必ず出てくるし、ロシアもそれは同じ道を辿る。本当に大事なのは、異端の“排斥”ではなく、“多様性の共存”を認め合うことであり、それ故の棲み分けに対して貴賎上下があってはいけないという概念である。そこを“否定”した時点で、いじめが根絶することはあり得ない…なぜなら、目の前の“相手の存在”が羨ましいからこそ、そして、そういうことに“憧れる自分”を否定したいからこそ、攻撃するのである。