迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

ごく一部の“同胞”が、組織全体を潰す理(ことわり)…

昨日、韓国の“身勝手”に対して日本政府が外交的制裁を行うことを発表した訳だが、そもそも、韓国がこういうことを繰り返す背景には、そうしないと国家財政が維持できないという一面があり、反日感情を利用して日本から金銭的援助という名の強請りを繰り返してた訳である。当然、今までそれを許してきた日本も悪いが、経済の悪化でその“回避策”として日本を強請るのであれば、国際社会で韓国はますますバカにされることになる…そう、日本を憎んでるのであれば、そういった経済支援を断つのがスジであって、“過去の出来事”に対する賠償に甘えている以上、自立国家に非らずと見下されることを、自分自身で望んでるのと同じだからだ。同じ理屈で言えば、アメリカの“白黒差別”もまた然り。黒人の若者が白人の知人…しかも知的障害者に対して暴行を加えた事件とて、それを“理由”に白人警官が“正当防衛”のために、罪を犯していない黒人の少年の頭をブチ抜く訳である。イスラエルに対する国際的な非難も、ある意味ではそこに尽きる…言葉は悪いが、そもそも、イスラエルという国家は欧米諸国がユダヤ人を人道的に“排斥”するための場であって、且つ、キリスト教徒的にイスラム教徒を殲滅したいからこそ、一種の“同士討ち”をやり続ける場でもある。正直、ヒトラーがやった行為以上にえげつない話であり、とてもじゃないが、ヒトラーナチスを無条件に批判できたモノじゃない。(と言っても、ナチスがやった“民族浄化”そのものは、批判されて当然なモノだったのはいうまでもないが…)
ここが一番大事な話で、基本的に“正義”ってモノは自分の目の前で他人が行なった所作によって“救われた”という感情から生まれるモノであって、行動そのものには正邪は関係ない。言い方変えれば、自分本位で“正邪”ってのは決まる訳であり、自分が相手を邪魔だと感じたら、それ故に勝手に相手を“悪”と決めつけ攻撃する訳である。そして、その“基準”は自分自身の経験値であり、周囲の評価である…ここが一番の問題であり、その“周囲の評価”というのは、親を含めた自分よりも年上…最低でも20歳以上の“大人”と称する存在が下す判断である。乳幼児ならそれでも問題ないが、知恵が付き始める小学生以上だと、そこで学んだ経験や知識を“悪用”するようになる。これが“子供のイタズラ”の正体であり、そこんトコを正してやるために躾を行うのが“大人の所作”としての重要な部分なのである。ここんトコが欠如してると、社会的に“常識”とされる事自体が守れなくなるのである…そう、コンビニのアイスクリームケースに全裸で入って寝そべったり、大型家具店で衣装ケースに身を潜めて閉店まで待ち、店内で大暴れするといった“犯罪”は、なんで“やってはいけないこと”なのかが理解できない“ガキの所業”である。
宗教…というよりも、礼節を学ぶ上で、大概のトコで“上下貴賎に関わらず”を標榜するかといえば、様々な立場の相手と交流する上で、“勝手な価値観”で批判することは、自分自身をもバカにすることだということに気付かせるためのモノであり、故に“相手を尊ぶ”とは“自分を敬う”のと同じ所作であることを認識させるのが、宗教哲学の“本文”である。しかし…その基盤となる宗教哲学そのものの解釈が間違ってると、それ故の“宗教批判”ってのは起きる訳である。つまり、ユダヤ人が諸外国でバカにされるのも、キリスト教徒がイスラム教徒を不審がるのも、実はここが“原因”である。民族間の抗争とて、実はごく一部の粗相が原因であって、それ故の“対抗措置”というより、余計なトラブル回避の“苦肉の案”でしかない。逆を言えば、ごく一部の人が“特別扱い”になるのは、単なる優遇ではなく、他と“隔離”することで余計な摩擦を避けようと思ったからこその話であって、そこんトコの理解が明後日な方向になってると、結果、余計な誤解や偏見による批判が増長することになる。身障者や高齢者などに配慮してバリアフリーを施した寺院が“ベビーカー自粛”を呼びかけた背景にも、その“特別扱い”を悪用した不逞の輩がいたからであり、批判する“相手”を間違えた一例である。同じ理屈は、今後のアメリカ経済でも起き得るでしょう…但し、“責めるべき相手”を間違えてる以上、危惧に終わるでしょう。一番“悪い”のは“自分の身勝手”から生じてる事に気付いた時、自分ではどうすることもできないほどのダメージを受けることになるでしょうからw