迷馬の隠れ家 はてな本館

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日本で自然再生エネルギーが定着しない理由…

浄土真宗本願寺派の僧侶が、檀家の減少による収入減を補うために、テラエナジーという電力会社(現時点では販売のみ)を立ち上げたという話があったんだが、基本コンセプトに関して、かなり大胆な挑戦をする意気込みには拍手はするものの、問題は、“自然再生エネルギー”のみで発電した電気を売るという部分…大凡は太陽光とバイオマスがメインでという話になるんだが、日本では大規模発電でそれをやるには、ちょいと“不向き”であることを理解した上で原発反対を掲げてもらわないと困る訳であり、そこんトコの説明を省くと、今回の話から逸れる事になる。

 

では、日本で“自然再生エネルギー”がなかなか定着しないのか?その一番の要因は、様々な“利権”が絡むからであり、また、そういう部分でのいざこざから来る開発の頓挫が、喫緊の課題なのに遅々として進まない一因になっている訳である。

 

根本的な問題として、様々な選択肢があっても、日本人の思考は基本、“単一規格・単一概念”である方がラクなトコがあって、故に“自然再生エネルギー”という概念の選択肢に対し、太陽光と風力ぐらいしか思いつかない人が多い。そのため、東日本大震災による津波が原因で福島第一原発が事故った事を受けて、太陽光発電パネルや発電用風車があちこちで、しかも厳密な地質や環境アセスメント等の調査もないまま急造していったモノだから、台風や長雨による土砂災害や暴風による影響で、次々と太陽光パネルや風車が潰れただけでなく、太陽光の場合、一度設置して太陽光に晒された状態になると、完全遮光しない限り発電し続けるため、破損したパネルを除去したくても、周辺に漏電してる状態になっていて、現場に近付く事もできないという、お粗末な話が散見された。また、集光率を高める目的で急斜面な山肌に、しかも無作為に設置してる事が多く、地盤が緩んで地滑りを起こすと、施設そのものがそのままスライドして近隣住宅地や高速道、線路を飲み込む事態になっていた。(事実、山陽新幹線の一部区間で、西日本豪雨と台風21号による地滑りで、線路脇の斜面に設置してた太陽光発電パネルが流入し、運行に支障をきたした件で、設置を許可した神戸市が、杜撰な施工業者相手にブチ切れた)

 

本来、自然再生エネルギーとして日本で注目すべきは、実は“地震大国”だからこそ湧き出る温泉を活用すべきなのに、なぜかここに手を付けない…その“理由”はすごく単純で、機器のメンテナンスが、他の発電方法と比べて“面倒”だからである。というのも、日本の温泉の多くは、塩化物(特に炭酸カルシウムや塩化ナトリウム)を大量に含むため、噴出時の高温が維持できたとしても、およそ数日で配管が動脈硬化の如く詰まる…有馬温泉の源泉でも、最低1週間に1度は全部の配管を交換しないと供給量を維持できないとされるため、これを発電施設で繰り返すとなれば、その度に発電を止めなければいけなくなる。これがすごく大変なのである。仮に、箱根の大涌谷に大規模な発電施設を作ったとした場合、強羅に排熱水を“温泉”として供給することは維持できても、発電用蒸気タービンに硫黄を含んだ塩化物が付着し、数日で使い物にならなくなるのは想像に硬い。また、単純泉(塩化物を含まない、いわゆる鉱水)であっても、日本の温泉の基準では、湧出時の水温が25℃以上あれば“温泉”と定義されるため、中には水温が低過ぎて発電に適さない源泉もある。ここを踏まえた上で温泉による発電を行うには、(国立公園として保護してる区域もあるため)厄介な問題を解決させなければ無理である。

 

バイオマス発電に関しても、基本は火力発電の燃料が化石燃料から切り替わるだけの話っぽく聞こえがちだが、問題は燃料供給のために起きる“矛盾”を理解してないと無意味である事…つまり、林業従事者のQOLの向上に繋がるのであればともかく、“安価な燃料”として間伐材や材木屑を大量に要求する様では本末転倒であり、また、メタンガスや排熱を利用する目的のみでサイレージ施設を改装するのも間違いである。バイオマスの本意は、あくまで“副産物の再活用”であって、食糧残渣や家畜の糞尿を発酵させて作る肥料の“副産物”としてメタンガスが発生する訳であり、更に発酵熱が生まれるのであり、そこを“再利用”する術としてやる分には、問題として気にする必要はない。当然、発酵技術によって燃料用アルコールや“バイオガソリン”と呼ばれる物質を作るのは結構な事だが、その“後処理”を考えて開発しなければ、結果として大気や土壌、河川(飲料用水)の汚染に繋がる。

 

革新的な技術があっても、その“欠点”のみを突いて潰す以上は、自らが責任を持って不便で窮屈な生活に従事せざる得ない。それを他人の所為にする時点で、無責任な話であり、それこそ“他力本願”の本意を履き違えた概念である。“他力本願”ってのは、自分ができる事全てをやり尽くした上で、それでも足りない部分、届かない部分をどうにかする為に協力を呼びかける事であり、手助けしてもらう事を指す。故に、単に他人に依存する事ではない…それが理解できない人程、言葉の意味を履き違えるのであり、故に哲学の多くが意図して歪むのです。