迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“情報”に惑わされると“本質”が見えなくなる話。

海外メディアとて、ことの“真実”なんて報じるトコはない…なぜなら、報道機関に携わる人の多くは、様々な思想に対して“中立中道”で居られる訳がなく、また、本拠地となる国の“常識”を基準として報じてるため、他国の感覚では“常軌を逸してる”という批判があってもおかしくない。悲しいかな、英語圏が世界の常識っぽい国際社会では、いくら日本の常識を懇切丁寧に説明しても通じないし、誤解や偏見報道がまかり通るのも致し方ないトコである。

 

 

ただ…ここでそれを語ったトコで、断片的な情報のみで事の全容を把握できる訳はなく、大方は聞き流して忘れるのがオチである。なぜなら、いかなる情勢の近況が報じられたとしても、自分と“直接”関係ある事以外なんて、頭に残る訳もなく、ただ単に“史実”が残っても、その“現場”に立ち会ってない以上、“他人事”だから無視されるのである。これが、本質…“自分”と“他人”という“絶対的な区別”がある以上、自分自身の五感以外は“信用できない”のである。

 

では、なんで人は断片的な情報に惑わされるのか?それこそ、五感…視覚と聴覚で入手できる情報は、あまりに身近なモノであるからだ。新聞やテレビ、ラジオはその最たる“断片情報”の根源であり、ここで流れた情報は、当事者が訂正を求めても、残念ながら完全な訂正などはできない。SNSでもそうだが、デマでもそれが確実に“デマ”だとわかってても、騙される多くは、著名人が“同意”してることに尽きる…特定分野で著名でも、それ以外の分野まで物知りな方が稀であって、著名人として周囲から担がれてるが故に、恥を掻いてても引っ込みつかなくなる訳である。

 

逆を言えば、専門分野での話題において、如何に“学ぶ”かで物事は変わる訳であり、一方的な報道を鵜呑みにせずに、その“裏取”として、自分が得意とする分野の、更に他方面の情報に精通してる人の意見を求める訳だが、ここに“信頼”という名のバイアスが掛かると、事を拗らせる可能性が出る訳で、そこんトコが難しい訳である。ただ…“専門分野”というカテゴライズに絞っている分には、正確な情報を得ることができるだけあって、余分な話題が紛れない限り、信憑性も高くなる。しかし、一般的な人…要は“ヲタク”じゃない人にとっちゃ、頭脳明晰ってのは“全ての話題に精通してる人”って認識があるから、専門分野以外の話題でトンチンカンな応答に対して“バカじゃねw”ってなる訳だし、また、専門分野の話題をやってても、あまりに沼過ぎて“キモい”ってなる訳である。

 

事の“本質”ってのは、案外、マクロとミクロの使い分けが必要な事であり、細かい事で分別すべき点と、俯瞰して全体を見るべき点をゴチャ混ぜにするから訳ワカメになるのである…“御書”の“摂受・折伏時による”と一緒で、基本的なことからズレてないなら、細かいことは気にせずに、話の内容があらぬ方へ飛んでると感じたら、そこで話の中身を再確認して軌道修正を促す…という手順を踏むことで、正確な情報を、更に真相に近付けるきっかけとして取扱うことができるのである。

 

こち亀”の話の中にも、カメラ小僧関連の話の中で、ファインダー越しの事実と事柄の本質に関する話題をやってた部分があったんだが、まさにそれで、被写体としてモノを見る目と、事柄の証明として見る目では全然意味が違うのであり、“芸術作品”として写真を撮るのと“歴史資料”としてでは、同じ場所で、同じ題材の、同じタイミングで撮っても、“同じ作品”にはならない訳であり、まして、アマチュアの偶発的に撮ったモノと、プロが狙いを定めて撮ったモノでは、そもそもの着想点からして違う訳であって、そこを一緒にして叩くのは、失礼極まりない話である。(だからと言って、鉄道沿線の樹木を勝手に伐採したり、利用者を邪魔者呼ばわりする輩は、プロ・アマ問わずに言語道断だが…)

 

 

結局、“情報”そのものが、あまりにも雑多な社会になった事で、自分にとって“都合のいいモノ”以外は信用ならんとしてバッサリ斬る傾向が顕著になってるだけで、本質的に“自分の生活”そのものが、それでどう変化したかってことに関して無頓着だから、“何も変わらない”となるのであって、何がどうなってるかなんてのは、自分自身が如何に“最前線”にいるかという自覚がないと、社会の中で置いてけぼりになるだけである…それが嫌だから他人を叩くのであれば、その結果から息苦しい社会になったのであれば、それが“自分が望んだ結果”ではないか。