迷馬の隠れ家 はてな本館

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愛すべき“バカ”と嫌われる“バカ”の差

いわゆる“バカ”にも、人々から“愛される”者と、その真逆で“嫌われる”者がいる…主観的な言い方をすれば、同じバカでも、好みの違いで“好き嫌い”が出るのと、まったくもって笑えない、正直迷惑でしかないのとのがある。但し、コレが客観的な見方で判別した場合、本当の意味で“ダメ人間”なのと、普段は空気でも有事に“切り札”になる存在では、その意味合いも、存在価値も違ってくる。

 

 

 

“愛すべきバカ”には、根本的な部分で、人々から“愛される要素”があり、また、学術や科学開発分野で一見すると“どうでもいい事”を研究してる様で、実は意外な“謎解き”に取り組んでて、それが世間で“役に立つ”モンだから、笑えるけど偉大な成果に驚くという訳である。その真逆…つまり“嫌われるバカ”とは、単に“常識外れ”という意ではなく、やってる事自体が“自己の正義”から来る傲慢さが含まれるから批判されるのである。勿論、“正義感”そのものの否定ではない…必要以上に承認欲求や金銭などの報酬を要望する事や、過去の功績や経歴“だけ”で、人を見下す態度が目に付く為、次第に“相手にしたくない”と、離れてく訳である。

 

また、どんなに悪ふざけをやってても“許される人”と、そうじゃない人にも完全な違いがある。前者は芸人であり、生業で相手も同業者であり、互いの手を読み合ってやってるからこそ“成立する芸”をやってるのであり、それ以外の人が、全くの赤の他人相手にやれば、同意無き行為(=犯罪行為)となる。仮に相手と“同意した内容”だったとしても、被害者が一方的に損害を受けてる以上、法の下では、その論理は通じない。通り魔的犯行(痴漢・盗撮行為含む)が重罪になるのは、そういう事である。

 

バラエティー番組での演出が因で、小学生が真似していじめをやるからといって、多くのコント芸がメディアで取り扱われなくなった分、校内でのいじめは減ったかと言えば、その真逆になってるのは、加害者にしたら“面白い”し“楽しい”からやってるのと、本当は親や教師に“構って欲しい”からこその行為であり、被害者にしたら加害者以上に周囲の大人の態度が“信用できない”から、自死という選択肢を安易にしてる訳であり、どっちも“バカ”ではあれど、叱る方向性が間違ってるから救い様が無いのであり、その“反省”も当事者だけでなく、関係各位全員がやらないと意味がないのである。どんなに下劣な芸でも、それを見て“笑顔になる”人がいるなら、一応大目に見てもらえるが、その“笑顔”の正体を知って、“やってはいけない”という自戒を立てられてこそ、実は本物の“お笑い芸”は成立する…人の失態を嘲笑うのは簡単だが、それを用いずに笑わせるのは、実はいかなる演技よりも難しいのであり、自虐ネタも、観客の好みや想像力が合ってないと“笑えない”のである。

 

 

 

では、“愛すべきバカ”になるには、どうすればいいのか?明確な答えは存在しないが、ただ、それが人々に“笑顔”を与えるモノである事が必須であり、故に、一見すると無駄なモノに思える考察や研究であっても、その応用技術や活用範囲が広いと、その分社会で役に立つのである。また、自分を犠牲にしてまでやってる事が、他人からバカにされたとしても、それは、その批判の数だけ関心があるからこその話である。本当に関心がないなら、話題にすらならないw

 

“嫌われるバカ”になるのは凄く簡単であり、誰でもすぐになれる…なんせ、価値観や世界観の違いから批判されるのは当然だし、自分が面白がってても、それによって他人が傷付くのであれば、罵られるのも当然である。だが…敢えて“嫌われ役”を買って出る人は、その時点で芸人以上に聡明で知的でなければできない。なぜなら、罵声や批判に耐えられるだけの忍耐力と、敢えて“バカ”を演じる度胸がないと務まらないからである。

 

 

 

同じ“バカ”でも、多くの人々が笑顔になるために努力してるのと、多くの人々を見下すのでは、意味も方向性も違う。そして、“笑顔”にも安堵や不安の払拭といったモノと、傲慢さや承認欲求からの侮辱では、その価値も変わる。だったら、“愛されるバカ”でありたいと願い、他人から見たらくだらない研究やしょうもない事案であっても、真面目に取り組んだ方が賢明である…同じバカでも、人々の“心の安寧”を求めてやった犠牲なら、その評価は馬鹿に出来ない程“尊い”モノだからである。