迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

マナーの多くは、“おもてなし”の本意を悟る事…

マナーレスの所業が、いろんなトコで散見されるが、これは結局、“お客様は特別な存在”という、勘違いも甚だしい概念による弊害と、オイラは考える。

 

 

そりゃ…特別な事情で待遇を受ける事は、世間的にも、あるいは親友や関係者としても誇らしい話だし、羨ましく思えるかと思う。けど、それは、自分を“招待した主人”の心意気でやってる事であり、決して“客人が上”ではない。つまり、主人と客は“対等なる存在”であって、分相応の対応として、食事や宿泊等の接遇をやってるだけに過ぎない。当然だが、コレはいかなる接客業務も一緒で、小売店は商品を求めて訪れた他人相手に、商品情報の開示や試用を受ける訳であり、運輸関連であれば、安全に乗客や貨物を目的地まで運ぶのが、仕事の一つである。故に利用者に対し、分相応の対価を求める訳であって、それが“価格”として表記してある。勿論、生産農家や飲食業なども、基本は同じ。

 

コミケ等のフリマ系マナーレスは、この“価格”の部分で文句言うのが多い訳で、そこには、生産者を労う気なんてさらさらない訳である。だから平気で値引き交渉をやろうってなるのである。特に手作り雑貨…手芸店での元値に上乗せして頒布するのはけしからんという批判は、正直、作家に対して失礼であり、また、仕入れ先の手芸店や機材メーカーに対して、正当な取引を阻害する行為に該当する。こういう態度で“俺は客だ文句あるか”と店先で怒鳴れば、他の出店者や客人が嫌がって避けるのは当然だし、作家もやる気を失くす。今の日本経済がボロボロなのは、その悪態が巡り巡った結果である。

 

話を元に戻して、マナーが存在する本意とは、それ即ち…互いを敬い労う事に尽きる。つまり、一般的な“おもてなし”とは、わざわざ御足労かけて訪れた相手に対し、礼を尽くす事であり、自分を受け入れる為に店主(主人)がわざわざ用意したサービスに対して、分相応の対価を払う事である。だから、“ゴルゴ13”にしろ“ブラックジャック”にしろ、成功報酬には法外な金額を要求する訳だし、それに似合う結果を生み出す為に尽力する訳である。経済の至極も然り…経営者は“主人”である以上は、幕下の就労者に対して報酬を与える義務があり、就労者は“顧客”である雇用者(経営者)に対し、報酬の対価として自分の人生を“労働力”として売り捌く訳である。この概念を無視してやってたら、いくら商売繁盛で事業拡大を急いでも、人材尽きて経営破綻待った無しであり、逆に自転車操業で、いつ倒産してもおかしくないベンチャー企業でも、ここの部分がしっかりしてたら、多方面からの信頼を受けて収益も上がってくる。

 

つまり、様々な場面で遭遇するマナーの多くは、そういった社会の“支え合い”の根幹であり、互いを敬う事で“対等なる存在”として扱う為の所作である。一見堅苦しい作法でも、そこには、“主人”と“客人”という“対等なる存在”として双方が敬う為のモノであり、単に形式だけにとらわれてはいけない。流派による差異があっても、互いの“気持ち”を尊重し合う為に、まずは“手順”として学ぶのである。だから、マナーは一方的な感情で強要するモノではなく、相手を指導した以上は、自分もまた、相手に対して礼を重んじる姿勢を見せるのがスジである。コレが、マナーの本質である。

 

 

 

本当に“特別な存在”であるなら、施す主人も、受ける客人も、分相応に労い、尊敬し合い、そして丁重に扱う…しかもその“理由”を双方が理解した上でやるのがスジである。そこを無視して“マナーレス”批判は、結局は自分自身の、存在価値や意義の“否定”でしかない。相手の身分や立場、年齢や学歴で卑下して罵倒する事の、なんとも滑稽な事…教養も、単に覚えてるだけじゃ“無駄知識”であり、それを生活に活用できて意味を成す。茶道や華道、“道”が付く教養の所作とは、上下貴賤なく“対等な存在”として相手にする為の基本を学ぶ場である。だから、芸術の道はもてなしの基礎であり、武術の道は手合せに付き合う相手への感謝が所作となる。宗教の礼節もまた、いかに親しい関係であっても、互いに謙虚であれ…と、説くのです。