迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“女人禁制”には分相応の理由があるw

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福岡だったら\しもの六太/

愛知だったら\安江のぶお/

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埼玉だったら\矢倉かつお

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はぁ…投票日前日まで、ネタ出しの際はこのテンプレが表示されますが、ご了承くだされw

 

 

 

 

 

 

さて、今回の話題は、一部の極左指向のメディアが持ち上げてる、“子育て知らずなオヤジ会”の活動内容を読んで、なんで“女人禁制”のしきたりが、未だに日本の祭礼には存在するのかを、ちっとも考えたことがないんだなぁ…って思う次第である。一見すると“女性軽視”なしきたりにも、その歴史変遷や背景を鑑みた時、一概にそうではない事に気付くこともある訳で、何でもかんでも“女性参画は世界の主流”と叫べばいいってモンじゃない。ちゃんと“理由”を精査すれば、自ずとそうならざる得なかった“事情”と、時代錯誤になってるにも関わらず変更できない“理屈”ってのが、明らかになる。

 

今月、京都市内…いわゆる“洛中”では、1ヶ月がかりの夏越の祓でもある祇園祭真っ只中な訳だが、今は長刀鉾のみに継承されている、ちょっと変わった儀礼がある。それは、鉾に乗る稚児の世話は、前祭山鉾巡行までの間は、町内の男衆のみで一切行うというモノ。表向きの言い分として、祭礼の際は“女は穢れ”とされる為だが、現代の感覚に則せば、地域での子育て促進の為と、伴侶を失ってからの自立に備えた訓練の意味がある…なんせ、普段包丁を持たないおっさんや、掃除もロクにできないヤンキーが、たった17日間といえど、3人の稚児相手に寝食共にして精進潔斎をやる訳だから、女性の助けを求めたくても、“女人禁制”を課した時点で、自分達自身でやらなきゃいけない訳である。つまり、炊事も洗濯も、部屋や周辺の清掃も、何もかもを“男手ひとつ”でやらねばならない訳で、料理担当が味音痴だと最悪だし、洗濯機の使い方や洗濯物の干し方などがヘタれな人に任せると、巡行当日までが思いやられる事に…今でこそこの風習自体は長刀鉾だけになったが、かつては全ての鉾町に稚児を用意してやってたから、この時期だけは町内の女衆が自分の旦那や恋人、家族の男性陣を生暖かい目で見てたやらである。(なんせ普段は女房や母親に任せっぱなしだった家事全般と育児を、この時期だけ、全部やらなきゃアカンからねw)

 

祇園祭に限らず、“女人禁制”な祭礼には、多くの場合は単に禁じてるのではなく、作法の関係での“安全対策”の面から、女性を遠のけてるのであって、故に、過去の祭礼での“事故”において死傷者の多くが男性なのは、その“結果”である…つまり、祭礼の怪我は、男性なら“度胸試し”の結果として付いたモノとして流せても、女性だと“縁起でもない”とされるのは、生涯にわたって怪我を負わせた責任が問われるからであり、それを事前に防ごうと思えば、身の危険から遠ざけた方が“簡単”だったからです。もっと言えば、仮に、体力的に“霊長類最強”であっても、女性である以上、顔や身体中に傷だらけになる姿は、男性からしたら“居た堪れない”という心情からの“配慮”なのです。当然、“ブサイク”の原因が事故や事件(強姦や暴行等)だったら、余計に男性からすれば心理的に辛くなるんです…自分自身の落ち度として。それを避ける為に、女性が祭礼に関わる事を禁じてるって訳です。

 

同じ理屈は、修験道密教系宗派でも然りで、そもそも、高野山比叡山が南海や京阪が鉄路を拓くまでは“女人禁制”だったのも、表向きこそ“修行の邪魔”って事でも、実際問題は、参詣道に問題があったからです…そう、険しい山道を登るのは、それこそ江戸時代中期までは、男性でも健脚自慢な人でも登り切るのが難しい場所でした。以前も解説したが、今でも大峰山修験道が“女人禁制”のままなのは、ボルタリング経験者でも危険極まりない崖を歩く上に、滑落事故が起きると、男性でも助かりません。逆に、熊野三社が女性でも参詣できたのは、それこそ参詣道が整備され、体調に合わせてコースが選べたという強みがあったからです。つまり、“女人禁制”を課してないトコは、昔から交通インフラや社殿仏閣での受け入れ態勢が万全だった証左であり、その真逆なトコ程“女人禁制”で安全対策を行ったと推察できるのです。

 

逆に“男子禁制”にしてる祭礼や儀式、しきたりには、どんな意味があるのでしょう?コレも簡単に説明すると、表向きは“男は信用ならん”とする事で、全ての工程を女性のみで進める意味があり、裏では男手不足に備えた訓練の意味も存在する訳である。もっと言えば、勘違い野郎から身を守る為のシェルターとして、社殿仏閣を利用する為の話であり、故に尼寺の多くは“男子禁制”であると同時に、単に信仰の場というよりも、社会復帰に向けた訓練の場であり、それ故に境内に作業場が設けられていて、そこで“職人”として腕を磨いて、生活の自立支援をやった訳である。

 

 

 

 

 

 

以上を踏まえて“女人禁制”や“男子禁制”がある理由を考えると、単に時代錯誤なモノではなく、キチンとした理由が、過去にあった事案を基にして設定されてるのであって、そこの部分をどう見直すかで、自ずと答えが見えてくる。つまり、日本相撲協会が巡業中のトラブルで緊急事態だったにも関わらず、体裁保持を優先にした態度は批判されて当然な話だった訳であって、それを“理由”にして平素でも女性首長が土俵に上がれないのはおかしいというのは、完全に話が別問題。また、女性専用車両に男性が乗ったとしても、ヘルプカードや白杖等、明らかに身障者と判る状態の人まで排斥するのは本末転倒。(特例で、体調不良や身障者は、男性であっても利用可能)まして、時間や運用区間が指定されてる場合、区間外や時間外なら女性がピーキャー言う筋合いはない。当然、そういう設定の経緯には、分相応の被害実態があったからこそで、疑念がある以上は仕方ない訳である。そこを弁えずに騒ぐのであれば、それが最大の“元凶”だからこその排斥である事に気付かなければいけない…“自己の正義”に固執する行為は、自ら社会との隔絶を望む行為と同意だからだ。