迷馬の隠れ家 はてな本館

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あどランアーカイブ その29(なぜ“あどラン”は終わったのか?)

久々のネタです。今回は“あどラン”が衰亡し、MBSの勢いが完全に止まった話をやらせていただきます。この番組は、千里丘時代から茶屋町初期までは、当時の社長の“お気に入り番組”のひとつとして数えられ、それ故に結構好き勝手な事をやってた訳である。しかし時代が移り、社長が代替わりした途端に、今までのエエ加減さが裏目に出て、どんどん番組の質が低下し、視聴率を稼ぐ事ができない“お荷物番組”になった。もちろん、今までの“主役級”のアナが次々と定年や配置換えで抜けたという事実もあるが、それ以上にアナ達をめぐる環境が激変した事が要因になっている事も否めない。

その前兆は既に、藤本アナから高梨アナへ室長が代替わりしたあたりから出ていた。藤本アナの場合は、番組内でも然るべき場面ではきちんと仕事をこなしていた。しかし、高梨アナの場合、“アナウンサー室長”と言う役職を継いでおきながら、番組内ではむしろ藤本アナに遠慮する姿勢が目立ち、藤本アナが完全に引退しても、その頼りない態度が番組内で空回りしていたのはいうまでもなかった。
また、阪神・淡路大震災当時、アナ達の殆どが兵庫県内在住(大半が川西市伊丹市、中には神戸市の六甲アイランド住民もいた)だった事もたたり、罹災したアナ達の精神的なダメージは、番組作りに大きな影を落とした。そして、一番のエース級だった角アナの“戦線離脱”(脳梗塞での長期病欠)…つまり“ブレーキ役”が、壊れたのだ。
なんとか番組の立て直しを図る為に、今まで番組に送られたハガキや手紙を紹介する時間を設けたり、アナ達の“個人演技”を容認した常設コーナーを設けたりと工夫を凝らした。が、結局はそれは“あどラン”の開始早々に決めた“掟”(自己中心的自己満足な企画は一切ボツ)を破る行為であったのはいうまでもなく、若手アナのカン違いを助長した。そして時さんが室長になった時に、制作部にいた努兄に“決断”を迫られた。それは、後に努兄がデスク職(てか、図々しく室長w)としてアナウンサー室に戻るきっかけにもなった訳だが、それをみんなに切り出すのに苦労したのは時さんであったのはいうまでもなかった。そしてそれは、アナウンス経験のない他部門の社員がアナウンサー室の“デスク業務”を引き受けるという“人事再編”を促すきっかけともなっている。だがそれは、ベテラン勢の我侭を許す再編であり、若手育成の妨げになっているのは、MBSの現状を見れば察しがつくだろう。(現在、アナウンサー室デスク業務の長である高垣さんは、元々“あどラン”のディレクターをやってた方である。)
“あどラン”自身は画期的な番組であったのはいうまでもないが、それは結局、“若手育成”を忘れて暴走した上司クラスが放送局の“将来”すらブッ壊した遠因にもなってしまった。これからの地上波はデジタル化の影響で、ますます財力のある東京中心の放送しかできない危険性を孕んでる。だが、視聴者が望んでいるのは、明らかに“地域密着型”の番組編成である。その狭間において、MBSはいち早く“地域密着”を打ち出したが、それはかつての“看板アナ”に頼ってるという醜態を晒しているのが現状である。