迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

なんか今年は、任用試験があるそうなんで…

以前、教学試験の話をした訳だが、どうやら今年の11月頃に、教学の基礎を学ぶ“任用試験”が行なわれるとか。ま、今月末以降からボチボチ試験範囲の発表やテキストの刊行等がある様なんで、それに則した内容の解説をやろうかと検討中である。(オイラも勉強する事になるからねぇ…w)
まぁ、今回はそんな訳で、“佐渡御書”の解説の際に省略した“五重の相対”ってヤツを解説しようかと思う。平たく言ってしまえば、仏法における5つの判断材料であり、大まかに言うと“内と外”“大と小”“権と実”“本と迹(しゃく)”“下種(げしゅ)と脱嫡(だっちゃく)”の違いである。

まずは“内外相対”について。
早い話が仏法とそれ以外という意味で、普通に解せばこの時点で、キリスト教イスラム教、ユダヤ教といった他の宗教団体に喧嘩売った状態になる訳だが、要するに、自分達の信仰は“ドコに求めるか”の違いを指すための喩えである。だから、教典(この場合は、根本的な宗教理念)に基づいた信仰なのか、世間に流されやすい信仰なのかの見極めが、この時点でなされるという訳だ。
で、この次にあるのが“大小相対”ってヤツ。
仏教は大まかに分けると、大乗教と小乗教に分類できて、修行方法もその宗派によって様々な訳である。しかし、読んで字の如く、真言密教などの小乗教は個人レベルの救済案でしかなく、法華経の様な大乗教の広範囲での救済案より劣ってると批判される訳である。こういう風に解説するのややこしくなるが、基本的イメージとして水上交通に例えると、小乗教は水上バイクや小型のプレジャーボートだとすると、大乗教はカーフェリーといったトコだと思ってくれればO.K.だ。
んで、その次が“権実相対”ってヤツ。
同じ大乗教でも、法華経とそれ以外に分類できて、法華経以前から存在する阿含経や般若心経などは“爾前(にぜん)経”とされ、法華経の“序文”でもある無量義経(むりょうぎきょう)以降展開される法華経より劣るとされている。ぶっちゃけた話、爾前経は法華経を理解しやすくするための“譬え話”であって、そのまま用いるとトンデモない勘違いを起こすから、釈尊法華経を説く前に弟子達に“正直捨方便(しょうじきしゃほうべん:素直に方便を捨てなさいという意味)”と言った訳である。
で、その次が“本迹相対”ってヤツ。
法華経の中にも“本門(釈尊の“出世の本懐”を説き顕した部分)”と“迹門(しゃくもん:弟子達の質問コーナーw)”に分類できて、基本的には“虚空会の儀式(こくうえのぎしき:量寿山(りょうじゅせん)上空に現れた多宝塔で行なわれたとされる重要な儀式。この時に“地涌(ぢゆ)の菩薩”に法華経が授与されたと伝承されている。)”以前を迹門とし、“虚空会の儀式”を含めた後半が“本門”とされている。学会員でなくても、日蓮宗系の宗教団体なら経本を見てほしいのだが、大概の場合、“迹門”に分類される方便品第二と、“本門”とされてる如来寿量(にょうらいじゅりょう)品第十六の一部が使われている。コレにもちゃんと意味があって、方便品の場合は“頭脳第一”とされた釈尊の一番弟子、舎利弗(しゃりほつ:サンスクリット語では“サーリプッタ”と発音する。)に対して十如是(じゅうにょぜ:人間の価値感を決定付ける10の要素。)について説かれ、寿量品(特に“自我偈”から)では釈尊と同じ境遇を体験せずとも、誰でも成仏できる事を説いている。故に、本門の方が迹門よりも重要な教えとして説くべきとされる訳である。
で、最後が“種脱相対”な訳だ。
こういった“学問上”での理屈をもって、結果論のみにこだわるのが“脱嫡仏法”であり、理屈ではなく実際の生活上で感じ取り、それを学ぶのが“下種仏法”の要諦であるとされている。つまり、教典に書かれてる事と現実がリンクしないと信用できないというのが脱嫡仏法の欠点であり、下種仏法の場合は、現在の結果よりも将来的な幸福を得るために“自分に何ができるか”を問い質すきっかけを作る教えである。よって、日蓮は“立正安国論”の中でも“法華経寿量品の文の底に沈めたり”と説いて、鎌倉幕府に諌暁を行なった訳である。
ま、ざっくりとやった訳だが、要するに、オイラ達学会員を愚弄するマスコミや政治家は、未だに宗教に対する強い不信感があるからこそ、宗教哲学を学ぼうともせずに批判する訳であり、もしもそういった部分をキチンと理解できてたなら、こんなにグダグダな日本にならずに済んだのですよ。イヤ、マジでw