迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite Contents vol.3(for “Young Oh!Oh!”)

上記のタイトルを、特定の声をイメージできた方なら、相当なお年と考えていいw (いや、オイラも人の事言えた義理じゃないがw)しかし、今時、こんな番組がもしも何らかのカタチで放送されるのなら、アナとタレントのバランスが難しい様な気がする。あの時代…そう、東京五輪大阪万博といった、高度成長期を象徴する様なイベントとともに、若年層をターゲットにした公開番組も、とても華やかだったのが、70年代のテレビの特徴といっても良い。そんな中から、日曜日のバカ騒ぎ番組のひとつだった“ヤングおー!おー!”について。もちろん、この番組は努兄を物語る上では欠かせない番組であると同時に、現在“大御所”として君臨している、多くの漫才師や落語家の“TVデビュー”の場でもありました。

そもそも、この番組は“歌え!MBSヤングタウン”のテレビ版として制作されたモノであり、それ故に、スタート時から努兄と桂三枝がセットでMCをやってた訳である。当時のヤンタンは、平日はスタジオでの生放送で、リスナーと電話やはがきを駆使して激しいネタ合戦(?!)の応酬だったが、土曜日だけは公開録音の形式を取っていた。というのも、ヤンタンのスタート時は、放送日当日の夕方に、リスナーをスタジオに入れての公開録音形式で、ABCがやっていた“ABCヤングリクエスト”との差別化を図った訳で、その時から、努兄と三枝師匠は、半ばコンビになってた訳である。で、この公録でのやりとりが、結構バカ受けしてた事もあって、コレをテレビの方へシフトしてみようと考えだされたのが、“ヤングおー!おー!”だった訳である。コレにより、ヤンタンの方は一時、公録を止めてスタジオトークのみの編成になるのだが…。
で、この番組には芸の上での先輩や後輩といった垣根が殆どなかった事もあり、コーナーによっては、完全に“お笑いロワイヤル”になってしまう事もしばしば。その最たるモノが“ザ・パンダ”という4人組。当時若手の落語家が、三枝師匠の芸達者振りに憧れて、それを番組の中で体現しようとしたのが、このグループだったという訳。後に、“ちんちらちん”だの“SOS”だのといった、漫才師の若手達のユニットへと時代は変遷していくのである。で、この中には、明石家さんま島田紳助もちゃっかり参加してる訳で、それが後に、さんまプロデュースの“何人トリオ”やら、紳助プロデュースの“羞恥心”“新撰組リアン”などのユニットの礎となっている訳である。
しかし、いわゆる“腸捻転解消”とともに、努兄がTBS出向(“おはよう720”キャラバン隊参加のため)の憂き目に遭って降板。その跡目を継いだ川村尚(のちの川村龍一)と近藤光史アナのノリの悪さ、更には三枝師匠の跡目を継いださんまの“大暴走”がアダとなり、時代の流れに取り残された“若者文化”は、80年代初頭に潰える事に…。しかし、この番組が無ければ、“痛快!明石家電視台”や、他局ながら“探偵!ナイトスクープ”は誕生しなかった訳であり、いわゆる“紳助ファミリー”も存在する事は無かった訳である。ぶっちゃけた話、始まりは努兄の異端児振りを活かす為のラジオ番組だったのが、後に全国ネットで、多くの関西の芸能人を売り込む番組へと進化した番組になっていった訳である。