迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite Contents vol.6(JAZZを志したコメディアン?!)


先日、谷啓が“それ、なんてオグリキャップ?”って感じで亡くなった。日本屈指のトロンボーン奏者にして、最高のエンターティナーであった事は、大概の人ならご存知だと思う。だが、忘れてはいけないのは、彼が所属していたクレイジーキャッツは、そもそもはジャズバンドであって、“コメディアン集団”ではないという事だ。それは、70年代に大暴れした、ドリフもまた然りである。と、いう訳で、今回は“谷啓追悼”の意味も込めて、高度成長期の芸能人の“苦悩”を、オイラのわかる範囲でやろうと思う。

日本で、本格的にジャズを演奏する為のバンドが誕生するには、戦後復興期の事情を知っておかないといけない。もちろん、戦前から、ジャズに関する知識や情報は、ある程度は入ってきてはいたんだが、戦時中、アメリカをはじめとする“白人文化”は、軍事政権の下、一切接触する事を禁じられていた。そのため、終戦するまでラジオではおろか、レコード屋でも洋盤は取り扱ってないだけでなく、所有する音源そのものも廃棄処分する指示が出されていた訳である。したがって、戦後のジャズバンドの、その殆どは進駐軍の基地内にあるホールや、周辺の飲食店にあるステージでの演奏が主で、公共の会館等でのコンサートなんて、夢のまた夢だった訳である。
故に、ジャズに魅せられて…というより、とにかく“音楽で食べていこう”と思うと、そういった飲食店の専属バンドとして雇ってもらうか、それこそ基地に忍び込んで、向こうのジャズバンドに鍛えてもらうしかなかった訳である。そうこうしてるうちに、民放のラジオが開局するとあって、生演奏の機会が増えた訳であり、そのうち、専属の楽団員としてクラシックや歌謡曲の演奏をやる人達が増えてきた訳である。(その最たるモノが、戦前からいるN饗な訳で…)
しかし、そのうちに“いつか自分達でバンドを…”と思い立つ人々が出てきた訳である。それが後に、独立したビッグバンドとして、各地のキャバレーやクラブで演奏する様になってくんだが、そういう流れの中で、もっとエンターティナーとして磨き上げるべきではないかと考える者も出てくる訳である。そいで、ハナ肇を中心に7人のエンターティナー集団が結成される事になる。コレが、“クレイジーキャッツ”というコミックバンドになってく訳である。でも、それは本来の姿ではない…そう、彼等が目指したのは、あくまでジャズのアンサンブルバンドであって、コミカルな演奏等は、言ってみれば“食扶持”の為の演出である…そういう風にさせたのが、民放テレビの黎明期という訳である。
後々、クレイジーキャッツは全国的に人気を博し、映画にも進出する様になると、もはやそれは本来の目指したスタイルではなく、ファンが求めた“コント集団”としての価値観だけになっていった…といっても良い。それは後に、いかりや長介を中心とするザ・ドリフターズの“方向性”にも影響を及ぼす事になる。ドリフもそうなんだが、元々は彼等もジャズやロックバンドとして結成されたグループであり、それ故に、当初はビートルズの来日公演の前座で演奏してたという“伝説”が残っている訳である。
ただ、ドリフの場合、コミックバンドからコント集団へと変化する際に、元々のメンバーである荒井注が、体力的な理由で脱退し、その代わりに志村けんが加わった事によって、バンドとしては完全に音楽の世界から身を引いたのに対し、クレイジーキャッツ植木等谷啓等、何らかの格好で全員が俳優へ転向してたトコもあり、基本的には“自然解散”に近い状態だった訳である。そして、常に楽器を持って、どんな状況にも対応したのがクレイジーキャッツであって、ドリフは“8時だよ全員集合”での成功が、却ってバンド活動そのものを放棄したという感じになる訳である。
だけど…どちらも原点は“音楽”であって、コントはテレビが求めた虚像である。そして、ソロ活動の際に、各々が最も得意とする楽器を手に、時には小さなライブハウスで、あるいは、著名なジャズバンドのゲスト奏者として、本来の姿を、個人レベルではやってた訳である。だから、長さんの場合だと、ビールのCMでウッドベースをかき鳴らし、谷啓も、トロンボーンのソロで、バラエティー番組に花を添えた訳である。そして、彼等の存在が無ければ、日本のジャズ…特に最近のバンドは、存在する事もなかったといって過言ではない。

遅ればせながら、ご冥福お祈りします。 つ白菊